ティラールの対応は、やや酷にも思えるが、正しい、とファルシスは感じる。フィリアのようなタイプの女性は、曖昧な言葉で社交辞令を交えていては、自らの胸の中でどんどん理想を膨らませ、それを相手に求めてゆくものである。次にいつ、このように近しく話す機会があるのか判らない状態で、その時まで彼女に希望を持たせ続ける方が残酷であると思う。

 とは言え、いきなりユーリンダに想いを告げられるのは迷惑以外の何でもない。ユーリンダも、いくら世間知らずとは言え、アルマヴィラの社交界ではこうした言葉を受ける事は幾度も経験しているので、慌てふためく事はない。そもそも、彼女にとっては、愛しいアトラウス以外の男は全て恋愛の対象外なのである。

「ティラール殿。そのような事を世間知らずな妹にいきなり仰られても、彼女は困惑するばかりです。何しろ、昨日初めて言葉を交わしたばかりではないですか。下級貴族でもあるまいし、そうした発言は慎重に願えませんか? まさかルーン家の長女を、ひとときの感情でかりそめの恋人に、とお考えな訳ではありますまい?」

 ユーリンダの保護者として、今は父が居合わせないので自分がこう言うしかない。

「まさか、かりそめの恋人などと……私は本気です」
「でしたら、それなりの手順を踏んで頂かねば困ります。宰相閣下の承認を得て仰っているのならば話は別ですが」
「父は父、私は私です。私は父に相手を選んで貰おうなどとは思っていません」
「あなたは宰相閣下のご子息。そんな我が儘がバロック家では通るのですか?」
「…………」

 流石にティラールも、父がここまでの勝手をあっさり許しはすまいという位の事は弁えているので、ファルシスの言葉には黙るしかないようだった。



 だがその時、暫く黙っていたユーリンダが口を開いた。

「ファル。ティラール様は私にお話しなさっているのに、何故ファルがお返事するの?」
「そりゃあ、僕は兄であり、今は父上がここにいらっしゃらないから、父上に代わって僕が……」

 何を当たり前の事を言い出すのだ、と更に苛立った口調になってしまうファルシスだったが、ユーリンダはそんな兄の視線を真っ向から受け止めた。

「父は父、私は私、と仰ったティラール様の御言葉に私は賛成だわ。私が誰と結婚するか、お父さまやファルに決めて貰う必要はないわ」
「何を馬鹿な事を! ルーン家の一人娘、次期聖炎の神子であるおまえが、そこらの町娘みたいに自由な結婚を出来るなんて本気で思っているのか? 貴族の娘の結婚は全て親同士の取り決めで成るものだ。いくらおまえが世間知らずでも、さすがにそんな事を知らないとは言わせないぞ」
「それくらいの常識は持っているわよ。でも、お父さまとお母さまはそれを破って思う通りの結婚をなさったのよ。私には駄目だなんて仰る資格はないと思うわ」
「生意気な事を言うな! 父上はその為に大変な努力をなされて、大きな犠牲も払われた。おまえにそんな覚悟があるのか?」



 仲の良い双子の珍しい喧嘩に、ティラールとフィリアは思わずそれぞれの恋の悩みを忘れて固唾を呑んで成り行きを見守った。人前で口喧嘩など何とみっともない、と心の奥で思いつつも、ファルシスは妹を怒鳴りつけずにはいられなかった。妹が従兄アトラウスと結婚したいと考えているのは手に取るように判っているが、そんな事を客人の前で公言されたりしては大変だ。だが、この、幼く純粋な少女そのままに成長した世間知らずな妹は、誰の前であろうと、正しいと思った事は憚らずに言い放つのだと、ファルシスはこれまでの経験から知り抜いていた。彼は、妹の軽い口を手で塞いで彼女の部屋に引きずっていって閉じ込めたい衝動に駆られた。

 だが、ユーリンダはファルシスよりある意味冷静だった。自分自身の事であり、正しいと思う事を口にするのに、なんの遠慮が要るだろうか? 自分より身分の高い人、目上の人の前ならばともかく、ここにいるのは皆同じくらいの年齢の同じ大貴族の子息子女ばかりではないか。
 彼女は兄を無視してティラールに向き直った。話の流れから、もしやユーリンダもまた、親の了承がなくても自分の想いを受けてくれるのではないか、と期待に胸を弾ませている様子のティラールだったが、ユーリンダの表情は硬かった。

「ティラール様。お気持ちは大変有り難く、光栄に存じます。でも、わたくしとティラール様は昨日初めてお話しした間柄ではありませんか。いったい、わたくしの何をご存じで、どこがお気に召したのでしょう? わたくしはただの田舎育ちで世間知らずな娘に過ぎませんわ」
「そんな事はありません。恋に落ちるには時間は関係ない。私は姫を一目見ただけで、姫のお美しいお姿に顕れる姫のお人柄、僅かな会話からもお優しさや英知を感じずにはおれませんでした。恋の女神イアナが私に囁いたのです。姫のお心を得ねば私は決して幸福になれないと」
「わたくしにはその囁きは聞こえませんでしたわ」

 ユーリンダは素っ気なく答えてから、ふと思いついたように、

「フィリアと人違いなさったんじゃありませんの」

 と付け足した。時折こうした言動をしてしまうのが、彼女の最大の欠点である。ひたすら善意に単純に、ティラールがフィリアを選べばよいと思って親友の為にしたつもりの発言なのだが、ティラールがこんなに熱烈な告白をしている時にそんな的外れな事を言われても、フィリアの心は益々傷つくばかりである。果たしてフィリアは唇を噛んで俯き、ドレスの布地をぎゅっと握りしめた。

「フィリア姫には申し訳ありませんが違います、私は……」
「ティラール様にとってはそうだとしても、わたくしは、会って間もない男の方にそんな気持ちなど持てません」
「そう……そうですよね、確かに。これは、私がどうも性急過ぎてしまったようですね……」



 悲喜劇的な会話の応酬に苛々したりはらはらしたりしていたファルシスは、ティラールがようやく引く様子を見せたのでほっとした。そうだ、何も話を急ぐ必要などないのに、このティラールという男はどうにも思い込みが激しく、こうと決めたら即実行しなければ済まない性格のようである。いつも何事も慎重に進める父親の宰相とはまるで違う気質を持っている。

「大変失礼を致しました。それでは姫、私という男の中身を知って頂く為に、王都滞在中にまた伺ってもよろしいでしょうか? 私は楽器も得意です。楽しんで頂く自信はありますよ」

 求愛を拒絶されたに等しいのに、ティラールは、今日は引き下がるというだけで、諦めるつもりは毛頭ないらしい。しつこい奴だなと内心呆れたファルシスだが、取りあえずこの場が収まれば、後は父と宰相の間の話になるからな、とも思った。

「勿論、訪ねて下さるのはいっこうに構いませんわ。でも、この先そんなに長く滞在する予定ではないのですけど」

 ユーリンダが無難な返事をした時、それまで黙り込んで俯いて話を聞いていたフィリアが不意に顔を上げた。

「私も伺っていいでしょ、ユーリンダ?」
「それは勿論、いつだって嬉しいわ!」

 ティラールに対するのよりあからさまに幾段も嬉しそうな顔で答えるユーリンダだったが、フィリアの目的は勿論ユーリンダに会う事ばかりではない。ユーリンダが従兄に恋い焦がれているのも知っているフィリアは、『会って間もない相手にそんな気持ちにはなれない』というユーリンダの言葉を自分にも適用する事にしたらしかった。何度か会っていれば、ユーリンダは幼い頃から想っている従兄から心変わりする筈もないとティラールが気付き、そこで自分に目を向けてくれるかも知れない、と。意外な強さがあったんだなとファルシスは感心する。

「わたくしも同席させて頂いて構いませんでしょう、ティラール様?」
「それは勿論。美しい女性が多ければそれだけ場も華やぎます」

 ユーリンダに熱い告白をしていても、ティラールは女性に対しては反射的に追従を言うようだ。フィリアは少し元気を取り戻して微笑む。ユーリンダはその様子を見て、自分がティラールとフィリアの仲を取り持つ事が出来るのではないかと思いついたようだった。

「じゃあ、今夜、お二人ともいらして下さる? 今夜は夕どきからアデール湖で船遊びの予定なんですのよ。良かったらご一緒に」
「ありがとうございます! 勿論、姫のお誘いであればいつ何時でも、何用を差し置いても伺います」
「私も是非ご一緒したいわ!」

 嬉しそうに二人が答えたので、ユーリンダは笑み、ファルシスはやれやれと思う。だが、話はまだ終わった訳ではなかった。



「では私はリュートを持参します。楽師はいりませんよ」

 ティラールが自慢げに言うと、ユーリンダは微かに表情を曇らせた。

「リュートならアトラが得意です。船縁で聴かせてもらう約束をしていますの」
「アトラ? アトラウス殿ですね、従兄どの……」
「ユーリンダ、折角ティラール殿が弾いて下さると仰っているのに失礼な事を言うんじゃない。お二人で競演して頂けばいいじゃないか」

 ティラールの笑顔に影がさしたのを見て、慌ててファルシスが口を出す。

「いえ、いいんです、ファルシス殿。ではリュートはアトラウス殿にお任せして、私は後でファゴットでも……」

 そう言った後で、ティラールはユーリンダを見つめ、

「そう言えば昨夜は、アトラウス殿と最初に踊る約束をしておいでだったとか。従兄どのとは随分お親しいんですね」

 想い人の名前を出されたユーリンダの頬はぱっと上気し、

「親しい……というか、幼い頃からよく一緒でしたから」

 と小声で返す。女性慣れしたティラールは、この様子だけで、何故自分が相手にされないのか、ユーリンダの想い人が誰なのかを理解したようだった。

「昨夜、お父君のルーン公殿下から、姫には特に定まったお相手はおられないとお聞きしましたが、姫ご自身のお心はいかがなのですか?」

 ティラールは、単刀直入にものを言う男である。ユーリンダは何を言うか判らないのでファルシスは慌てて割って入ろうとしたが、頬を染めていたユーリンダは、意外にもはっきりと答えた。

「そんな事をお答えする義務はございませんわ。私の心のなかの事であって、相手がどう思っているのかなんて解りませんもの」
「そうですか」

 ティラールは、ユーリンダとアトラウスの間柄ははっきりしたものではないと受け取って、また笑顔になる。
 ファルシスは、妹がアトラウスの名前を出さなかった事は賢明だったと思い、胸を撫で下ろした。……ユーリンダのこの言葉が、後の事件の引き金のひとつになってしまうとは、この時は、思いもせずに。