アルフォンスは息を潜め、レイピアに手をかけたまま気を研ぎ澄まして相手の気配を窺った。この真闇の中で、倒れている三人を守れる者は自分しかいない。地上の靴音はゆっくりと階段に近づいてくる。特に殺気もなければ気配を隠そうという様子もない。だが、まさかただの図書館員という訳ではあるまい。こんな場所に深夜に訪れる理由がある者はごくごく限られている筈だ。



 その何者かは、階段の入り口まで来ると、ランタンを掲げて下の様子を窺っているようだった。リッターとエクリティスは階段の途中に倒れている筈だ。アルフォンスは音を立てずにじりじりと階段の方へ寄った。足音のおかげで方向が掴めてきた。手を伸ばすと、誰かの身体に触れた。恐らくリッターだろう。上方に微かなランタンの灯りを感じる。少しでも目を慣らそうとアルフォンスは瞬きして階段の上方を見つめた。すると、足音の主は、地下が無音であるので皆眠っていると思ったのか、相変わらず警戒する様子はなく階段を下り始めた。

(誰なんだ……この歩き方は……まさか……)

 足音が一歩一歩近づくたびに、灯りが近づいて来る。それにつれて少しずつ辺りの様子が判り始めた。アルフォンスが触れていたのはエクリティスだった。リッターの後ろにいた筈だが、危険を察知してあるじの方へ駆け寄ろうとしたのだろう。
 相手を欺く為には、自分も眠ったふりをした方がいいのかも知れない。だが、アルフォンスが考えている者が相手であれば、恐らくすぐに見抜かれてしまうだろう。それに、その人であれば、自分たちの身に危害を加える事はあり得ない筈だ。
 やがて足音が近くで止まり、ランタンの灯りがこちらに向いた。暫く真闇の中にいたので、その小さな灯が眩いくらいに感じられた。

「やはり、鼠がかかったか。呆れた様だ」

 独り言ではない。その人はアルフォンスに向かって言ったのだ。ランタンの灯りは、アルフォンスの黄金色の髪とその人の黄金色の髪を闇の中に浮かび上がらせた。



「……猊下! なぜ……」

 呻くようにアルフォンスは問うた。大神官ダルシオン・ヴィーンは、一人の供も連れずにいつもの冷然とした様子で階段の五段目あたりに立ち止まって、大貴族たちを見下ろしていた。

「鍵を開けてはならぬ。鍵を持ってここへ立ち入る者は皆、排除せねばならぬ」
「猊下! 猊下がわざわざこのような罠を? 猊下は鍵の扉の向こうにあるものが何なのか、やはりご存じなのですね」
「知らぬ。知ってはならぬのだ」

 きっぱりとダルシオンは言った。そして倒れているスザナとリッターを見下ろし、

「他家の公爵まで引き入れるとは呆れてものも言えぬ。そなたはそれ程に小心だったのか。何も知らぬ癖に出しゃばって、どんな事を引き起こす所だったのか、まるで解っていまい」

 侮蔑的な言葉にアルフォンスの顔は険しくなったが、二人が無理に付いてきたのだと言い訳はせずに、

「解りません。解らぬから来たのです。何故エーリクは殺されなければならなかったのか。鍵を開けてはならぬと猊下が仰るなら、その通りにするしかありませんが、せめて猊下がご存じの理由をお教え下さいませんか」
「何故私が理由を知っていると思うのだ? そなたよもや、私がイサーナ殿を唆し、グリンサム公を殺害させたなどと思ってはおるまいな?」

 ダルシオンはゆっくりと段を下り、アルフォンスに近づいてきた。

「そんな事をなさる筈がありません。王国で最も高貴な聖職者であられる猊下が。ただ、扉の向こうにあるものが何なのか知らぬというお言葉はそのままには受け止めかねます。こんな罠を仕掛け、それがどうなったかを確かめに、たったお一人でこんな所へいらっしゃるなど、知りもしないものを守る為にしてはあまりにも危険で軽率なお振る舞い」
「私の言葉が信じられぬと申すのか。そんな不信心な者は王国にそなた以外あるまい」
「そんなつもりではありません。ただ、賢明な猊下らしからぬ事をなさると。御身を案じて申したのですが、お気に障られたのならばお詫び致します」
「ふん、追従こそ、そなたらしくない」

 ダルシオンは吐き捨てるように言う。アルフォンスは別段追従を言ったつもりはない。何者が待ち受けているかも解らぬ場所に一人で赴くなどダルシオンらしくないと思ったのは本心だ。しかし考え直してみれば、この場所が危険だと思っていたのは、アルフォンスには何が先にあるか解らなかったからであり、ダルシオンが全てを知っており、危険はないと判断しての行動であれば納得はゆく。庭園で襲って来た者の正体を知っており、あの男を遣わした者が己を害する事は決してないのだと判っているのならば尚更。

 だが、この考えを読み取ったかのようにダルシオンはそれを否定した。

「私とて、ここへ来たかった訳ではない。だがこの扉を守るのは私の使命であり、鍵が開けば、私の身にも危険が及ぶのだ。勿論、そなたの身にもだ。だから多少の危険があろうと、止めぬ訳にはいかなかった。私がこの香を用いたのは何故だと思うか? カレリンダとこの香を常用しているそなたには恐らく効かぬだろうと思ったからだ。連れの者だけを眠らせ、そなたと話をせねばならぬと思ったからだ」
「話を?」

 意外なダルシオンの言葉にアルフォンスは判断に迷った。昔から自分はダルシオンに好感を持たれていない。重要な事で正直な意見を言えば大抵口論になってしまう。宰相ですら、大神官に対しては時には機嫌を窺う素振りであるのに、いくら縁者とはいえ、極めて不遜……と思われても仕方がないような場面もあった。だから、ダルシオンが自分の問いに対して素直に知っている事を教えてくれるとはアルフォンスは本当は全く期待していなかった。ただ、知りたくて来たのだ、と言っておきたかっただけなのかも知れない。だが意外にもダルシオンは、話そうという心持ちになっているようであった。

「私とて、そなたがグリンサム公と同じ運命を辿ろうとしているのを放置する程冷血ではないぞ。ここまで来たからには、ある程度は話しておかねば、そなたはきっとまた同じ愚を犯すであろう」

 そう言ってダルシオンは微かに笑った。彼が笑うのは、皮肉を込めたものであってさえ、極めて珍しい事であった。

「代々のルーン公が、その意味するところを知らぬままに護るべきものがあるのと同様に、代々の大神官にもそれがある……と言えば、解るか? 護ると言っても、鍵は何世代も前に失われ、鍵がなくば決して開かぬ仕組み故に、ただ、万が一にも何者かが開けてしまった時に感知出来るよう気をつけるというだけだったのだが」

 ダルシオンの言葉は、アルフォンスの予想を遙かに超えたものであったが、その意味はすぐに解った。

「何ですって……では、ここが『ヴィーンの……」
「それ以上言ってはならぬ」

 ダルシオンはアルフォンスの言葉をとどめた。

「禁忌中の禁忌だ。言ってはならぬし、知ってもならぬ。伝説の神子であり両家の始祖であるアルマ・ルーンとエルマ・ヴィーンの定めし掟。知れば王国の、大陸の滅亡を招くやも知れぬと伝えられる秘中の秘。不幸にも、グリンサム公は偶然に鍵を見つけ出し、彼の好奇心が、どんな結果を招くかも知らずに鍵を開けさせてしまった。本当に私は、彼が何を見たのか知らぬ」
「しかし猊下、それは彼が殺されねばならなかった程の罪なのですか? しかも、愛する者の手によって……」
「わからぬ」

 というのが、大神官の答えであった。

「私はグリンサム公の私邸に赴き、あの鍵はルルア大神殿に所属するものであるから即刻返却するように話した。だが驚いた事に、そなたなどと違い、私に言葉を返した事もない敬虔な信徒であるグリンサム公は、それを拒んだのだ。あれは王立図書館のものであると言い張って……。だが、私とのやり取りはそれだけなのだ。或いはイサーナ殿は、その話を聞いてしまったのかも知れぬ。そして夫が大神官に逆らうような背信者と思ったのかも知れぬ」



 アルフォンスは、ダルシオンの言葉を一語一語吟味して考えた。ダルシオンの言う、伝説の神子の定めた掟は、父である先代のルーン公から爵位を受け継ぐ際に教わった、門外不出の秘伝を護る事である。『その意味するところを知らぬままに護るべきもの』。知りもせぬものを命を賭して護るのは難しい。だが、不用意に手を出せば如何にルーン公と言えども、たちどころに命を落とすと伝えられている。

『これはルーン公を継いだ証であり、矜持なのだ。それを護り抜く事が、アルマ・ルーンが子々孫々に課した枷。中身自体は或いは何の意味もないものなのかも知れぬが、ルーン公であるという誇りを貫く為に、決して忘れてはならぬものなのだ』

 亡き父の言葉が脳裏に蘇る。そして父は、ヴィーン家にも同じようなものが存在している筈だとも言っていた。だが、ヴィーン本家の出で聖炎の神子である妻カレリンダとその話をした事はない。どんなに彼女を愛し、分かちがたく二人の心が結ばれていても、それはアルフォンスという個人のことであり、ルーン公として護らねばならない部分は、たとえ己自身の命より大事な人に対してでも晒す事は出来ないのだ。勿論、カレリンダもまた、聖炎の神子として、アルフォンスには理解し得ない部分を持っている筈だと思っている。
 そのように、夫妻の間でさえ言葉に出来ない程重い秘伝を、他家の長であるエーリクが偶然知ってしまったとしたら、当然ヴィーン家にとっては一大事、到底看過できぬ事態である。だが……そもそも、何世代前の事か知らぬが、大神官ともあろう者が、そのように重要な鍵を紛失したなどという事があり得るのだろうか? 紛失したとして、それをそのまま放置しておいたというのも解せない。ただ鍵が開いた時に感知できるようにしておく以外に手を打たなかったとはどうにも信じにくい話だった。それに、そんな重大な話をイサーナが立ち聞きするのにダルシオン程の男が気づかぬ訳はない。

(わからない……どこまでが真実なのか……)

 ダルシオンの手にしたランタンのみが唯一の光。光は、闇の中にぼんやりと、尖った頬骨と高い鼻を持つダルシオンの厳しい顔に複雑な模様の陰影を映し出している。アルフォンスは、少しでもそこから真意を読み取ろうとその貌を黙って見つめていた。