こんなところに閉じ込められてなんて不憫な、とお母さまに何度も泣かれた。わたくしがちゃんと産んであげなかったから……ごめんなさい、と何度もきつく抱きしめられた。もし本当にここから出る事をお父さまが認めて下さったなら、お母さまは喜ぶだろうか? そして、もう泣いてばかりだったり、突然ぼくの首を絞めたりしなくなるだろうか? お母さまはたまに、別の人みたいになってしまう。

『もう終わらせましょう、一緒にいきましょう』
 初めてあの言葉を聞いた時、お母さまがどこかへ連れて行ってくれるのかと、ぼくはとても嬉しかった。でも次に感じたのは、お母さまの指と爪がぼくの喉に食い込む感触。痛くて苦しくて、ぼくは思わずお母さまを蹴り、振り回した手がお母さまの顔に当たった。指が離れて、お母さまはそのままテーブルに伏せてすごく泣いた。
「お母さま? ご、ごめんなさい、いたかった?」
「い、いいえ、いいえ、アトラ……ごめんなさい、あなたこそ、痛かったでしょう、わたくし、どうかしていたわ……」
「ぼくはだいじょうぶだよ。よかった、お母さま、元のお母さまに戻って」
「よかったなんて……」
「ぼく、鬼がお母さまに化けているのかと思っちゃった。ちょっとぼくをびっくりさせようと思ったんだよね、お母さま」
「あ、アトラ……」
 お母さまはまた大声で泣いた。
「本当に、本当にわたくしは鬼だったわ。許して頂戴、アトラ。世界中で一番、おまえが、おまえだけが大事なのよ」
「うん、お母さま!」

 お母さまが、世界中で一番、ぼくを好きでいてくれる。それだけでぼくはすごく嬉しくて、他のことなんかどうでもいいんだ。お外に出られないのも、お父さまが時々酔っ払って、「このくそ餓鬼、おまえなんかくたばれ!」と叫びながら鞭で打つのも、ぼくがいけない子だから仕方ないんだ。鞭で打たれるのはひどく辛いけれど、その代わり、傷がとてもひどい時には、お父さまの許しが出て、お母さまが看病しに来てくれる。その時はもうものすごく嬉しくて、また鞭で打たれたいと思うくらいなんだ。ぼくの傷が悪くてすごく高い熱が出て、薬師でもあるオルガが、もう駄目かも知れません、と言った時、お母さまは泣き叫んで、オルガが止めるのも聞かずに包帯を全部外してぼくの傷をなめてくれた。それで、ぼくは治った。お母さまはすごいんだ。

 お母さまがぼくを殺そうとしたことは、それからも何度かあった。たいていは、愛しているから一緒に神さまの国に行こう、と言われたので、ぼくはお母さまがぼくを大好きだからこんなことをするんだと思ってちょっと嬉しかった。死ぬのは怖かったので思わずやめてと叫んでしまって、すぐにお母さまは元に戻ったけれど。

 でも一度、他とは違った時があった。お母さまのお顔がひどく腫れていた。お父さまにぶたれたんだ。
「お母さま、大丈夫?」
 ぼくはお母さまに駆け寄った。お母さまはぼくを見た。それは今までに見たことのないお母さまの顔だった。
「おまえのせいで……」
 ばりばりと厚紙を破ったような声で、お母さまは言った。
「おまえのせいでこんな目に遭う。なんでちゃんと生まれてこなかったの。私は不貞なんてしていない。カルシスさまだけなのに……」
 がっ、とお母さまの手が喉にかかる。いつもより力が強い。お母さまの息は、お父さまと同じ、お酒の臭いがした。
「おまえさえ……おまえさえ生まれなければ!」
 ……ぼくは痛かった。喉がじゃない、心が、だ。じゃあ、お母さまもお父さまと同じように、ぼくがいない方がよかったの? ぼくが生まれない方がよかったの? 世界中で一番好きじゃ……なかったの……。
「伯爵妃さまっ!」
 気づいたオルガが駆け込んでこなかったら、多分お母さまはぼくが死ぬまで元に戻っていなかっただろう。
 オルガに渡されたお水を飲んで、お母さまはようやく元に戻った。
「わたくしったら……なんてことを。一番辛いのは、この子なのに……」
 そう言ってお母さまは泣いた。でも、ぼくはお母さまを慰める力が出なかった。本当はお母さまはぼくが嫌いだったんだ。だったら、もっと早く、殺してくれればよかったのに。やめて、なんて言わなければよかった。ぼくを好きだからお母さまはぼくと一緒に死んでくれる、そう思えていた時のほうが、今より遥かに幸せだった事に、ぼくは気づかされていた。
「ごめんなさい、アトラ。弱いお母さまを許して」
 これまでと同じようにお母さまは言った。だけど、ぼくは返事をしなかった。
「許してくれないの? ああ、なんて子なの。お母さまはこんなに辛いのに……」
 やっぱり、この日のお母さまは少し変だった。お酒のせいだったんだろうか。
「アルフォンスさまのせいよ。こんなことになったのは。アルフォンスさまが約束を破ったりしなければ……」
「アルフォンスさまってだれ?」
 もう口をきかない、と思ったのに、ついぼくは聞いてしまった。
「おまえの伯父さまよ。お父さまのお兄さまよ。わたくしは本当は、アルフォンスさまと結婚する筈だったの。アルフォンスさまなら、おまえがこういう風に生まれたからって、きっと話も聞かずにこんな扱いをしたりはなさらなかった筈よ」
「お母さまは、お父さまじゃなくて、その方と結婚したかったの?」
「そうよ。ルーン公爵よ。あの方と結婚していれば、おまえもきっと、黄金色を持って生まれていた筈。なのに、聖炎の神子のくせに、カレリンダがあの方の心を……ああ、言っても仕方ないわ、こんなこと」
 お母さまは確かにすごく酔っ払っていた。後で知った事だけど、機嫌の悪いお父さまに殴り飛ばされ、これまで口をつける程度だったお酒を、嫌になるまで飲んだんだって。
「ルーン公爵?」
「そうよ、お母さまがアルフォンスさまと結婚していたら、おまえは黄金色を持って、皆にちやほやされる、次期領主さまだったのだわ」
「……みんななんか、どうでもいいよ」
 ぼくは小さく呟いた。
「何?」
「ぼくは、色なんかどうでもいい。お母さまはぼくの髪と目が黒でも、ぼくを世界で一番大好きだと思ってたから。でもお母さまはやっぱり、ぼくが黒いからぼくなんかいない方がいいと思ってるんだ。もう、いいよ。お母さまに要らない子なら、ぼくはいなくなりたい。お母さま、ぼくを殺していいよ」
「ああ、アトラ……違うのよ。お母さまにとって一番大事なのは、おまえただ一人なのよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないわ……ごめんなさい、アトラ。あなたに傷を作ってしまったわ。本当に愛しているわ。おとなは時々、本当でない事を言うの。あなたの傷を癒したい……」
 そう言うと、お母さまはぼくの衣服をはだけて、いつか鞭の傷を舐めたみたいに、全身を舐めだした。動物のお母さんは、傷ついた我が子をなめて治すんだって、ちょっと前に本で読んでいた。それはとても心地よくて……ぼくはお母さまへの愛でいっぱいになり、お母さまのいやな言葉は忘れるようにした。
 ただ、アルフォンスさまがいけないのだ、という言葉は記憶に残った。お母さまがお母さまでなくなって、ぼくが生まれなければよかったなんて言ったのも、アルフォンスさまのせいなのだ。ぼくがこんな色に生まれてしまったのも、アルフォンスさまがお母さまとの約束を守らなかったせいなのだ。ぼくは、辛いことがある度、これはアルフォンスさまのせいなのだ、と思う事にした。自分のせいじゃなく、会った事もない伯父さまのせいだと。そうしたら、少しだけ気持ちが楽になった。