深夜という時刻になっても、宴が終わりに近づく気配は一向にない。夜が明けるまでこの祝いは続く筈だ……酔いつぶれて運び出される者や、この日できた恋人と手に手をとって夜闇に紛れていく者が徐々にこの場から姿を消していく為に、明け方頃にはだいぶ静かになっているではあるだろうが。

 アルフォンスはようやく帰り支度を始めていた。その前にユーリンダを送っていったアトラウスが戻って来て、乳母が傍についてぐっすりと眠ったようだと報告をしてきたので、ひとまず一つの心配の種はなくなったように思えた。ファルシスとアトラウスに、先に帰るがもう少し宴を楽しんで来てもよいと言い残し、「ルーン公殿下ご退席!」と呼ばわる声を背に、アルフォンスはホールを後にした。息子と甥は、これからどう振る舞うか自分たちの判断に任せて心配ないだろう。やっと、静かにものを考える時間が出来た、と思う。銀糸を編み込んだとめ飾りのついた黒貂のなめらかなマントの裾を払いながら、急く素振りは見せずにやや大股で広い回廊を歩いてゆく。ユーリンダのあの預言は、一体いつの事を指すのだろうか。国王については、特にこの、大勢が王宮に入り込んでいる即位式前後の警護は万全の筈であるからそう心配はないだろうが、自分については? 剣で刺される、殺される……それは数年先かも知れないし今日かも知れない。今から自分がしようとしている事を思えば、それが今夜である可能性は充分に頭に入れておかねばならない。何もせずにこのまま帰宅して明日黙って鍵を返せば、あの預言は回避できるのかも知れないが、アルフォンスは危険を恐れて諦めるつもりはなかった。『鍵を開けなくちゃ駄目』……あの言葉に全てを委ねる決意が今は固まっていた。もしもその決意を思いとどまらせる為の預言なのであれば、神意に背く事にもなりかねないのだが、何もかもが曖昧な今、かれは己の信じた方へ進むしかないと思っていた。即ち、真実を知り、エーリクの死の原因を解き、降りかかる危険を回避する手段を得るよう行動する事。



 広い王宮の敷地内には、主であるヴェルサリア宮の他に、国王宮、王妃宮、王太后やその他の主要な王族がそれそれに住まう小宮、国賓を泊める為のミシア宮、それ以外にもいくつもの小宮や塔や館が乱立している。建てられた時期は様々であるが、どれも立派で堅固な造りである事には間違いない。そして、その中でもかなり古い時代から――王国初期から存在しているのが、大貴族の為の小宮が並んだ一画である。七つの小宮はどれも同じ造りだった。建国期より遙かに豊かになると、ここは手狭に感じられ、今では大貴族は皆、王宮を出た上町区画……貴族や富商の大邸宅が建ち並ぶアリア大通りに公邸を建てて、宮廷に伺候し公務を行う間はそこに寝泊まりし、王宮内の公宮は控えの間のように使われている。ヴェルサリア宮からも少し離れていた。
 アルフォンスは小姓を従えて宴の喧噪が背後に小さくなっていくのを感じながら、大理石の柱が立ち並ぶ外回廊を通ってルーン公宮へ向かった。この、悪天候の時は雨風に激しく打たれる外回廊にさえ、その柱と天井には惜しみなく最高級の白大理石が用いられ、その中に磨けば磨く程煌めきを放つ黒耀の石が散りばめられて、複雑な幾何学文様を描いている。ヴェルサリア宮の灯りが遠ざかっても、今宵はこの外回廊にも柱ごとに灯りがともされていて、小姓に持たせたランタンも必要ない程に明るい。庭園を抜ける辺りにさしかかると夜闇を緩やかに吹き抜ける風が、木々の合間に隠れた恋人達の囁き合いや喘ぎ声を、葉擦れのさらさらという音に紛れて運んでくる。このように人が多ければ、先程のように怪しい者が襲撃してくる事もあるまいと、アルフォンスは軽く苦笑した。

 公宮は全て二階はない造りである。ルーン公宮へ入って真っ直ぐに私室へ向かうと、そこには聖炎騎士団長エクリティス・ウィルムが待っていた。艶やかな黒い長髪を首の後ろで束ねた凛々しい騎士団長は、主の姿を見て頭を下げた。アルフォンスより一つ年下の、鍛え抜かれたこの騎士は、幼少時から現在に至るまで、アルフォンスにとって無条件に信頼を置ける、無二の腹心である。アルフォンスは付き従ってきた小姓に下がって休むように言うと、エクリティスに向き合った。

「エク、遅くまでご苦労。頼んだものは手配できたかい?」

 二人の間では、アルフォンスの口調は自然とくだけたものになる。

「はい、アルフォンス様の仰せの通りに」

 とエクリティスの方は固いようだが、実は人前では殿下或いは殿、二人だけの時や家族など親しい者の前だけでは昔通りにアルフォンス様、と呼称を使い分けている。これはアルフォンスの望みであったが、エクリティスにとっても誇りであり喜びであった。

「門番の方は?」
「はい、私が祭りで酔いどれた痴れ者のふりをして近づき、こんな目出度い晩にこんな場所に近づく奴なんかいるものか、共に呑んで騒ごう、と持ちかけて眠り薬入りの酒を振る舞いましたので、今は持ち場でぐっすり眠っている筈です」
「おまえが? 痴れ者のふりか! それは見てみたかったな!」

 思わずアルフォンスは疲れも忘れて声をあげて笑った。エクリティスは端正な顔を僅かに赤らめて、何も面白くなどありません、と抗議した。

「まあ、確かに騎士団長に頼むような事ではなかった。妙な事をさせて済まなかった。お前以外の者に知られる訳にもいかなかったからな」

 そう言いながらもまだアルフォンスは可笑しそうな目でエクリティスを見ている。根は明るいのだが、常に生真面目の鎧を着ているようなエクリティスが、町民のなりをして酔いどれた芝居など、想像がつかなかった。

「いいえ、アルフォンス様のご命令とあれば旅芸人のふりでも何でも致しますよ。衣装はこれでよろしかったでしょうか?」

 エクリティスはもう冷静ないつもの表情に戻って、傍らの袋から衣類を取り出してテーブルの上に置く。町人の着るような質素なチュニックと大きなフード付きの焦茶色のローブ。

「ああ、これなら顔も髪も隠れるな。ありがとう。じゃあ、行ったり来たりで悪いが、おまえも支度をしてくれ」
「アルフォンス様、お休みにならなくて大丈夫ですか。私のみの護衛でどちらかへお忍びで探索へ行かれるなど……先程は若たちの前でもあり、申しませんでしたが、そのようにお疲れの時に、危険ではありませんか。ここ数日、忙しさで殆ど睡眠をとっていらっしゃいません」
「おまえがいれば大丈夫だろう……それに、まだ眠る訳にはいかないんだ。明日の朝までという期限付きだからな」
「なんの期限ですか」
「それは道すがら話そう」

 言いながらアルフォンスはさっさと儀礼用の豪奢な衣装を脱ぎ始めた。エクリティスの用意した服装に着替える間に、エクリティスも騎士団長の正装を解いて素早く同じような服――痴れ者のふりをする時に使った服に替えてきた。アルフォンスは特に、背に流れる黄金色の髪をきつく縛って丸め、フードに隠れるようにたくし込んだ。このルーン家の誇りと象徴である黄金色の髪と瞳は、隠密に行動したい時には常に邪魔になる。瞳を隠す為にフードを目深に下ろすと視界はかなり遮られてしまうが、仕方のない事だった。

 アルフォンスは、乗って来たルーン家の紋章を備えた立派な大型馬車を一旦公邸に帰し、再度ファルシスやアトラウスの為に戻って来るように命じた。無論、かれがその馬車に乗って公邸に帰ったと人々に思わせる為である。馬車の御者にそれが無人である事を気づかれないように言い含めると御者は意外そうな顔をしたが、承知致しましたとすぐに答えた。

「何故ジェスはあんな妙な顔をしたんだろうな?」

 後からアルフォンスがエクリティスに言うと、エクリティスは、

「勿論、アルフォンス様はここにお残りになってこっそり女性をお引き入れになるおつもりだと思ったのでしょう」

 と可笑しそうに答えた。普通並みに気を回す者なら、誰が考えてもそう思うような状況であるのに、この聡い主人は自分の事になるとそういった風に気が回らないらしい、と思うと可笑しくなったのである。

「なんだって。二十年もわたしに仕えていながら、そんな事がある筈がないと判らないのか、あいつは!」
「まぁまぁ、皆がアルフォンス様のように潔癖な訳もありません。あいつを咎めないでやって下さい」
「別に咎める気はないが、わたしは特別潔癖というつもりではなく、当たり前にしているだけだ」
「しかし、世の中では残念ながら当たり前ではないようですよ……特に宮廷では」
「エルディス様の御代になればこの爛れた風潮はきっと正されるだろう。潔癖といえば、そなたの方こそなんだ、相変わらず浮いた話のひとつも聞かないが」

 そう言われたエクリティスは、

「私の事などどうでもよいではありませんか!」

 と言い返したが、そのいつものやり取りがここ数年の間に、昔のように単純に、エクリティスがうぶな自分をからかわれる事への恥ずかしさを誤魔化すだけではなく、いつしか微かな憂いを帯びた調子になってきた事にアルフォンスは気づいている。もしや道ならぬ相手に恋慕しているのでは……と密かに心配しているアルフォンスだったが、今はこれ以上そんな話を続ける暇はなかった。

「どうでもよくはない。騎士団長がちゃんとした家庭を築くよう配慮するのもわたしの務めだ」
「そんな務めは……」

 言いかけてエクリティスは言葉を切る。二人はほぼ同時に、この小宮へ何者かが侵入してきているのに気づいた。

「何者でしょうか。大胆不敵にもルーン公宮へ忍び入るなど」
「さぁ……だが、刺客にしてはあまりにも大胆と言おうか劣っていると言おうか……まるで気配を隠し切れていないじゃないか」

 侵入者は裏門から何らかの手段で入り込んだようで、アルフォンス達がいる私室の方へまっすぐに向かってくる。門番はどうしたのだろうか。怪しい者に懐柔されるような配下はいない筈だが、戦闘があった様子もない。向かってくるのは一人ではないが大勢でもない。殺意は感じられない。二人はじっと待った。すると、扉が静かに叩かれた。