シャサール・バロックはアルフォンスより二歳年上、いずれ公爵位を受け継ぐ嗣子として、アルフォンスやエーリクと同じ少年期に王都で学んでいた。だがその気性は、穏やかで誰にでも分け隔てなく接するアルフォンスやエーリクとは真逆で、己の立場を利用してすぐに自分に諂う他の貴族の少年達を従え、身分の高い貴族の子弟が通う学問所の中で派閥を形成した。宰相の位についた父の権力を笠に着て、追従を使い阿る者を侍らせて、彼が通る時には皆頭を上げてはいけない、という暗黙の決まり事まで作り上げた。だが勿論アルフォンスやエーリクにはシャサールに諂う理由はない。少し年下ではあるが、成績はシャサールよりずっと良いし、シャサールの機嫌を損ねたからといって父親が宮廷で困った立場になる事もない――実際は、シャサールの父バロック公は、子ども同士の諍いを理由にその親を判断し冷遇する事など考えもしないのだが、シャサールが、「自分に逆らえばお前達親子は宮廷にいられなくなる」と言って周囲の少年を脅すので、従うしかなかったのだ。シャサールは自分に従わない年下のアルフォンスとエーリクを嫌い、折りに付けては手下を使って二人に嫌がらせをした。腕力で劣るエーリクはただ黙って耐えていたが、武芸の才も芽生えさせていたアルフォンスの方は、自分から喧嘩を売ることはないものの、理不尽な要求に黙って従う事もない。陰湿な嫌がらせも全てあっさりと見破り打ち負かし、時には皆の前でシャサールを論破して見せたりもした。エーリクを庇い、シャサールを叩きのめした事もあった。そんなアルフォンスの周囲に、少しは気概を持った者達が徐々に集まり始め、アルフォンスが望んだ事ではなかったが、当時、学問所ではシャサール対アルフォンスの二大派閥が出来上がっていたのだ。実力でも人望でも誰が見ても下だったシャサールだが、彼には父が宰相で自分は年長であるという強みがあった。だが、長じるにつれ、その強みが失われる事になる。アルフォンスが17歳で、エーリクが25歳で公爵位を継いだのに対し、皮肉なことにその力に頼っていた自分の父親がずっと衰えない為に、30代になっても伯爵位しか頂けず、見下していた二人の下に立つしかなくなったのだ。いずれはシャサールとてバロック公爵となる人物、アルフォンスもエーリクも彼に昔と同様に丁寧に接したが、父親からその類い希な資質を受け継ぎ損ねたものの、矜持だけは充分に受け継いだシャサールは、その気遣いすら侮辱と感じ、一層二人を憎んだ。今宵エーリクが死んだ事は、父親から直接は聞いていないが、父の配下から無理矢理聞き出していた。幼馴染みの死にも、シャサールはその理由にさえろくに興味も持たず、邪魔な奴が一人消えたと薄く笑むような男である。
 そして、それをおいても今日は彼にとって何よりも晴れやかな日である。娘が王妃となったのだ。人は皆、王妃リーリアを、宰相の孫娘、と見るが、祖父と孫の間には当然祖父の子、孫の親が存在する。シャサールは実際には、宰相の遺伝子を自身の中では眠らせたままに娘に引き渡す役割しか果たしていない訳だが、王妃の父となった事で、長年の鬱屈を晴らし、アルフォンスの上位に立った気でいた。彼はしとどに美酒に酔い、王妃の父に諂う輩に追従を浴びせられ、舞い上がる心地であった。
 スザナに対しては、同年で幼少の頃から知る間柄、子どもの頃、その外見の愛らしさに惹かれ、「大人になったら妃にしてやる」と言ったことがあったものの、「私はアルフォンスの妃になる」と突っぱねられた事を、三十年ほど経った今でさえ根に持っていた。また、女の癖に自分を差し置いて公爵でいる事も勿論気に食わなかった。

 そんな憎らしい二人が茶番を演じて――二人をずっと意識してきた彼だから、さすがにこれは茶番だと見抜いていた――逃げるように通りかかったものだから、意趣返しをする絶好の機会だと、シャサールは自身の取り巻きの前で二人に絡んだ。
「座興? いやいや、とても似合いだ。聖人ぶったルーン公は実は年上の熟れ過ぎた女が好み故に、宮廷の名だたる美女の誘いにはこれまで乗らなかったのだな。そういえば、妃殿下も貴公と同じ齢。若く美しい女には興味がない、そういう嗜好だったという訳か」
 安い挑発にアルフォンス自身はただ軽蔑の念しか抱かなかったものの、スザナや妻まで引き合いに出されて黙っている訳にはいかない。
「そのような言い方はスザナに失礼ではないですか。彼女はただ、ご婦人方の悪ふざけに困っていたわたしを助けてくれただけですよ」
「失礼だったかな? だがスザナは私と同年、いくら若作りをしたって、リュスト侯爵夫人の若さには敵うまい。いつもの男装の方がお似合いですぞ」
 シャサールはスザナの顔が怒りに引きつるのを愉快げに眺めてそう言いながらも、ふと更に侮辱的な言葉を思いついた。
「男装……そうか解った、これまで数多の美姫の誘いに乗らなかったのは、実は男色の気があったのか! そうなんだろう、ははは、そう言えば妃どのも双子の後は出産しておられぬ。なるほど、面白い! 案外本当の情人は、同じようにお堅かったエーリクあたりなのかも知れぬ! ははは!」
 いくら酔いの上での戯れ言といえど、あまりにも酷い言い草だった。幼馴染み、王妃の父といえど、爵位からすると上位の相手に対し、無礼で下品極まりない。だが、彼の取り巻きは彼が上機嫌で笑っているので、いいのだろうかと思いつつも、それに倣って笑うしかなかった。
 酔いも手伝って、シャサールは気が大きくなっていた。この目出度い宴の席では、何を言われてもアルフォンスは黙って忍ぶだろうと思い、衆目の前で恥をかかせて何とも心地よく溜飲の下がる気分だった。だが、アルフォンスは怒りのあまりレイピアの柄に手をかけた。ヴェルサリアでは同性愛は最も恥ずべき行為とされている。常と異なるアルフォンスの様子に気づいた者達が大きくざわめいた。だが当のシャサールはまだ気づかずに、自分の冗談が余程面白かったらしく、笑い続けている。
「駄目よっ! アルフォンスッ!!」
 スザナが顔色を変えてアルフォンスの腕を引き留めようとしたが、かれは誰もが見たこともないような勢いでその手を振り払った。アルフォンスの怒りは自分への侮辱からではない。シャサールは、『お堅かったエーリク』と言った。知っているのだ、エーリクが死んだ事を。知っていながら悼むどころか笑いものにしているのだ!
 この場で王妃の父に対して剣を抜けば、いかな大貴族といえども咎めを免れる事は出来ない。それでも、無念のうちに死した友への侮辱に対する怒りは、かれの分別を消し去ってしまう程に大きなものだったのだ。
「黙れッ! シャサール!! 我が友を汚す事は許さぬ!!」
 騒がしい中でさえ誰もがはっとするような大声でアルフォンスは叫んだ。剣の柄を握った指に力が籠もった。その気迫にシャサールは驚き、手にした杯を思わず取り落とした。シャサールも剣を刷いてはいるが、アルフォンスがもしも本気であるなら、その技倆からいって、シャサールの命が風前の灯火である事は誰の目にも知れた。黄金色の怒気が陽炎のようにアルフォンスの身体を包むのを人々は見たように思った。
 間一髪……その時……。

 ぱぁん、ぱぁん、ぱぁん……!!!

 今までのものより格段に大きな音を鳴り響かせ、夜空に大輪の花が咲いた。国王と王妃が、晴れて真の夫婦となったのだ。ホールの奥からも、王宮の塀の向こうからも大きな歓声があがり、「国王陛下万歳!」「王妃陛下万歳!」という声がひっきりなしに上がり始めた。その瞬間にアルフォンスの激情はぷつんと糸が切れたように退いた。スザナはぎゅっとアルフォンスの右腕にしがみつく。アルフォンスの額に汗が滲み出た。この慶事の時に自分は王妃の父に対して何をしようとしたのか。シャサールの身に何かあっていたなら、これ以上の不吉はないではないか。
「……ありがとう、スザナ。もう大丈夫だ」
 掠れ声でアルフォンスは謝意を表し、強ばった指を開いて剣から離した。周囲から、大きな溜息が漏れた。
「な……な……っ、何をする気だったのだ、アルフォンス! この私に向かってよくも……」
 青ざめつつも危機が去った事に安堵しながらシャサールは非難した。アルフォンスは険しい表情は崩さずに、
「貴公の品格を疑われる発言が座興であるなら、わたしの振る舞いも座興とお許し願いたい。シャサール、あなたは王妃陛下の父君。いかに酒宴の席とは言え、最低の品位も保てない冗談で古くからの友人を侮辱するような言動は、王妃陛下の為にならず、ひいてはヴェルサリアの国益にも関わるかと思います」
 と言ってのけた。
「何だとっ! ただの洒落に対して何という言い草だ! 温厚な貴公がそこまで立腹するとは、さては本当に後ろ暗いところがあるのではないのか!」
「まだそんな事を言うのか! これ以上他者の品位を貶める気なら本当に許さぬぞ!」
 言い分はアルフォンスに利があった。シャサールの冗談は、言われた者に貴族として騎士としての矜持がある者ならば誰でも聞き逃せぬ酷い侮辱であるし、それを、単に通りかかっただけの相手に向けて発し、この場に居ぬ者の名まで挙げるなど、最低としか言いようがない。だが、シャサールには、宰相の跡継ぎ、王妃の父という権力がある。もしも普通の貴族ならばこの場で言い返す事も出来ずに歯噛みしながら引き下がるしかなかったろう。しかしアルフォンスは、国を支える七本の柱、七公爵である。忍ぶ事は認める事に繋がりかねず、退く気はなかった。人々は勿論、かれにそんな趣味がない事など承知している。聖都アルマヴィラは誰もが何かの折りにつけ訪れる所であるし、その際にはリュスト侯爵夫人ら宮廷の美姫をも霞ませるような美貌の妃カレリンダに会い、夫妻仲睦まじいところを己の目で見ている。あんなにお美しい妃殿下がおられれば、他の女性に目が行かぬのも理解の及ぶところと誰もが思っていた。
 しかしシャサールの方も、謝罪する事は恥と感じ、今更言を翻す事は出来ぬと思った。多くの人々が花火に注目し、喜びに沸き立つ中で、この一画だけが皆固唾を呑み、どうなることかと身動きもせずに二人を見守った。