周囲のざわめきもろくに耳に入らず、アルフォンスは娘に駆け寄ってその頬に手を当てた。青ざめてはいたが肌は温かく、触れられるとぴくりとして長い息を吐いた。彼女が身じろぎをすると、黄金色の睫毛の間に溜まっていた涙がひとしずくこぼれ落ちた。取りあえず命に別状はなさそうな様子に安堵しながら、アルフォンスは傍らの息子と甥を見て、

「いったい何があった?」

 と問うた。これに対し、アトラウスはファルシスに目配せをし、

「なんでもないんです、伯父上。ユーリィは初めてのこの饗宴で華やかさに酔い、疲れが過ぎたのだと思います。ここで楽しくお喋りをしながら、王妃陛下と伯父上のダンスを皆で拝見していたのですが、どうも、ドレスの中に天井から落ちてきた蜘蛛が入り込んだようで」
「蜘蛛? どこに」

 よもや毒蜘蛛では、と眉を上げたアルフォンスにアトラウスは、

「もう僕が潰しました。ただの害のないものです」

 と、床の上の潰れた何かを示した。

「ユーリィは、『蜘蛛が』と叫んで僕に縋り付き、そのまま気を失ってしまったんです。しかしとにかく、どこかで休ませた方がいいかと」

 とファルシスがアトラウスの言葉に続けた。

 しかし、二人は揃って、これは咄嗟の言い繕いであり、アルフォンスに知らせるべき真実は別にあるのだと言いたげだった。大した事ではない、というには目つきがかなりの真剣さと憂いを帯びている。アルフォンスは頷いて立ち上がり、周囲に詰めかけた人々に、

「大袈裟に騒ぎ立てて申し訳ない。娘は少し疲れたようです。奥で休ませれば気付くと思いますから、落ち着いたら館へ帰します」

 と説明した。これに対して、安堵となおも心配の声、そしてユーリンダと踊る順番を待っていた若者たちの間からは残念そうな溜息が洩れたが、場を騒がせた事に対する非難めいた声は特に聞かれなかった。
 ファルシスは妹を抱えてホールを出て、アルフォンスとアトラウスがその後に続いた。ホールの喧噪が徐々に後ろに遠のいて行く。アルフォンスは、さっきエーリクが安置された部屋に呼ばれた時と同じ感覚を覚えた。全く、なんという日なのだろうか!

「団長どのが小部屋を手配して下さっています」

 ファルシスの言葉とほぼ同時に、回廊の向こうから長身の男が近づいてきた。

「こちらです」

 団長といっても庭園で会った金獅子騎士団長ではない。アルマヴィラから随行してきた聖炎騎士団長エクリティス・ウィルムである。アルフォンスの幼馴染みであり尤も信頼できる腹心の部下である彼は、父親である前団長の引退と共に団長の地位を引き継いでいた。世襲ではなく、その実力をアルフォンスに、そして騎士一同に認められての事である。ファルシスやアトラウスは、父の爵位を引き継ぐまではアルマヴィラを守護するルーン公直属の聖炎騎士団の一員であり、身分はエクリティスより上でも、現在は部下として接している。
 七公爵家はそれぞれ各家に、八公国時代からの流れを汲む由緒正しい騎士団を保持しており、ヴェルサリア王国には、これに王家の金獅子騎士団、王宮騎士団の二つを加えた九つの騎士団が存在する。外国との戦争など大きな有事の際にはこの全ては金獅子騎士団を中心に結集し、王国の為の剣となり盾となるべき重要な存在である。エクリティスもまた、今宵はこの祝祭の客でもあるのだが、九騎士団長一の男前と言われながらも、三十代となっても浮いた噂の一つもない生真面目さで、己の任を務め剣技を磨く事だけに生き甲斐を見いだしているように見えるこの男は、宴を愉しもうという気持ちは殆ど持たずに、主君のアルフォンスや若君、姫君たちの安全に気を配る事に集中していたので、いち早く行動していた。

「ありがとう、エク。済まないが誰も近づかぬよう見張りを頼む」
「心得ております」

 エクリティスはアルフォンスに一礼して扉を開け、四人を通すと、自らは扉の外に立った。



 室内は、女官の個室の空き部屋であるらしく、寝台にはたった今用意されたらしい寝具が整えられている。ファルシスは未だ意識のない妹をそっとそこに横たえた。綺麗に結い上げていた黄金色の髪は乱れて枕に胸元にほつれながら広がった。

「医師は今は必要ない……というのが、きみたちの判断なのだね」

 アルフォンスは確認した。ファルシスとアトラウスは頷いた。

「ユーリンダはルルアの声を聞いたのです。母上が儀式の際に時折お聞きになるように。ただ……初めての事である上に、その内容があまりに禍々しいものであった為、こういう状態になってしまったのかと。あまりに目を覚まさぬようなら誰か神官に診て貰わねばと思いますが、恐らく大丈夫でしょう。母上もこういう時はひどく疲弊すると仰っていましたし……」
「あの場にいた者たちはその言葉を聞いたのか?」

 そう問いかけながらも、アルフォンスは、既に息子達の態度からある程度事情を察していたものの、エーリクのように何者かに狙われてではなかった事に、ルルアに深い謝意を心中捧げていた。

「いいえ、伯父上、恐らく、皆に聞こえたのは、『蜘蛛』という言葉だけだったと思います。ファルが素早く彼女を皆から引き離しましたから」

 アトラウスの答えに、先程の彼の台詞を繋げ合わせながらアルフォンスは暗い面持ちで、眠っている娘の顔を見下ろしながら、

「それは良かった。……で、ユーリィはどんな様子でその言葉を口にし、その禍々しい言葉とはどのような内容だったんだ?」
「はい、父上が王妃陛下とダンスされているのを、最初は嬉しそうに眺めていたのですが、途中からぼうっとした様子になって、隣にいた僕は、人々の熱気で少し気分を悪くしたのかと思い、声をかけようとしたんです。そうしたらユーリィは突然、『蜘蛛が!』と叫びました。蜘蛛がどこにいる、と問う間もなく次に、『やめて、嫌よ、蜘蛛の巣が……お父さまに絡みつく。逃げるところがないわ。何て怖ろしい蜘蛛が……それも一匹じゃない、何匹も……ああ、ここで、お父さまが殺されてしまう』」

 ファルシスは唇を噛み、絞り出すようにこの不吉な言葉を父に伝えた。アルフォンスは何とも言えぬ厭な気がしたが、何とか平静な表情を崩さずに息子に、それだけか、と尋ねた。

「まだあります。『鍵を開けちゃ駄目』」
「そこは『鍵を開けなくちゃ駄目』と僕には聞こえた」

 驚いた顔でアトラウスが口を挟んだ。

「なんだって! 全く逆じゃないか!」

 思わずアルフォンスが言うと、ファルシスとアトラウスは顔を見合わせた。どちらも、相手にそう言われればそうだったかも知れない、と思っている風で困惑している。

「すみません、伯父上。僕の聞き間違えかも知れません」
「いや、判らない、僕も最初の言葉で動揺していた。ともかく、続きがあります。『真の王権がそこにある。けれど、真の王は自らの血に塗れ、偽りの王もまた光をうしなう。真の王を救わねば、王国は滅びの危機に瀕する』」

 枕元に置かれた銀の燭台の灯火がファルシスの表情を影に隠していたが、その声は掠れ、小さかった。アルフォンスはあまりに重大な、そして思ってもみなかった内容に言葉を失った。他の者に聞かれなくて本当に良かった。聞こえていれば、祝事を穢したとして投獄されてもおかしくない程のことだ。この、新王即位を祝う場で、「真の王は血に塗れ、偽りの王もまた光をうしなう」とは……。これがユーリンダ自身が考えた言葉でないのは明らかだ。政治的な事になどまるで興味もなく、何不自由なく護られて過ごす事を当たり前に成長し、美しいものや恋物語に心ときめかすばかりの恵まれた乙女である。もしも彼女が例えば王妃リーリアのように、才気芳しく、知的な欲求に身を焦がす性質であれば、アルフォンスは息子と同様に勉学の師をつけて好きなように学ばせる事を許しただろう。だが、本人がそうした事にまるで興味を持たないものを、無理に男勝りの学問を身につけさせる必要もないと思い、ただ一流の貴婦人としての教養と、次期聖炎の神子としての魔道の修養だけを課してきた。そんな娘の口から、『真の王権』などという言葉が意識的に出る筈はない。

 アルフォンスは思わず懐にある、先程預かってきたエーリクの鍵に、服の上から触れた。『鍵』とはこれの事なのか、別の何かを指すのか。ルルアの神託であるとしても、息子と甥の言葉が正反対である以上、どうするか……鍵を開けるのか、そのままにしておくのかは、己で決断するしかない。ユーリンダは目を覚ましても恐らく、自分の言った事は何も覚えていないだろう。聖炎の神子が預言を口にする時は殆どそうなのだ。だが、ユーリンダはまだ聖炎の神子ではない。まだ継承していない者が預言を与えられた例など過去にあるのだろうか? 早く妻カレリンダの意見を聞いてみたいと思った。

 黙り込んでしまったアルフォンスに、ファルシスが声をかける。

「父上、これがもし予言であったとしても、回避する道はある筈です。その為にルルアはお知らせ下さったんだと思います」

 ファルシスは勿論、前半の「お父さまが殺されてしまう」という部分を案じているのだろう。エーリク・グリンサムのように、じわじわと追い詰められ、止めを刺される……まさに彼の状況は、『逃げ場のない蜘蛛の巣に捕らわれた』ようなものだった。だがアルフォンスは、己が彼と同じ運命を辿るとはそれ程心配していなかった。大きな警告が発せられたのは、息子の言う通り、それを回避すべく動くようにとのルルアの計らいであるように思われた。

「大丈夫だファル、わたしはそう簡単に殺されはせん。武に対し身を護る術は持っているし、魔に対しては、現在のと未来の聖炎の神子、二人もついているんだから」

 その言葉にファルシスは少しほっとしたようであったが、アトラウスはまだ難しい表情を崩さなかった。彼の黒い瞳は心から案じている様子の揺らぎを浮かべていた。

「伯父上、軽くお考えになってはいけません。どんな者が狙ってくるかわからないのですから。ユーリンダは『ここで』と言いました。ここ、とは、王都か王宮か……いずれにせよ、今回の式典が全て終わったら、一刻も早くアルマヴィラにお戻りになり、暫く出仕は控えられた方がよろしいのではないですか」
「ありがとうアトラ。無論ルルアの預言を軽んじてはいないし、わたしだってむざむざと死にたくはない。王都での用が済めば、なるべく早くアルマヴィラに帰るとしよう。この意味について、カレリンダに早く意見を聞きたいしな。きみの言う通りだ」

 アルフォンスは甥の忠告に対し感謝を示してから、若い二人に向かって言った。

「だがわたしは、後半の方が気になるのだよ。真の王、エルディス陛下が自らの血に塗れるとは、何という不吉な。それに、偽りの王とは誰なのか? どうしても、これを調べてみない訳にはいかない。アルマヴィラに帰るとしても、何か陛下の身をお守りする手段を講じておかなければ。解っているとは思うが、この件は決して誰にも洩らさないように頼む」

 もちろん心得ています、と二人は異口同音に答えた。