重苦しい気分でアルフォンスは室を出て賑やかな宴の続くホールへと、来た道を引き返した。王国にとってこの上なく目出度き祝いの日に、まったく何という悲劇が起こってしまった事か。エーリクから声をかけられたあの時までは、不吉など想像もせずに、国王夫妻の晴れやかな門出を寿いでいたというのに! この即位式の日に、王国を支える七本の柱の一本が倒れた事に、かれは深い懸念を感じずにはいられなかった。実行犯は判明したものの、ただ苦い気分がいや増すばかりで、陰謀の真相を明らかにする事には今のところ繋がっていない。イサーナ一人でこのような大それた事を起こせる訳もなく、何者かが彼女に教唆したのは明らかと思えた。だが、グリンサム公妃ともあろう女性が、いくら夫の不貞に恨みを抱いていたとしても、容易く誰かの駒になる筈がない。
 アルフォンスは、懐に手を入れて、イサーナから預かった鍵の存在を確かめるように軽く触れた。古びた真鍮の鍵……それだけが真実へと導いてくれる手がかりである。だが、先程アルフォンスが自分で言った通り、それを調べる時間は余りにも少なかった。しかし、実は、全くの雲を掴むような話ではない。イサーナは予想していないだろうが、かれにはたった一つだけ思い当たる事があり、それに全てを賭けてみるつもりだった。



 明るい楽の音と喧噪、王家の繁栄を喜ぶ歓声や、ルルアの恩寵への感謝……そうしたものが段々近づいてくるにつれて、かれは難しい表情を和らげて、希望に満ちた人を装わねばならなかった。アデットホールへ入ると、何人もの人がかれの周りに寄ってきて、グリンサム公のお加減はいかがでしたかと尋ねた。アルフォンスは常の通りに穏やかな笑みを浮かべて、宴を中断させて申し訳なかったと言っていた、顔色もよくなってきていたが、医師の指示により今は薬湯で眠っている、と簡単に説明しておいた。多くの人々はその説明であっさり納得し、安心して宴へ戻って行った。だが無論、全ての人がそう単純な訳ではない。

「父上……」

 ファルシスがそっと傍に寄ってきた。彼は誰にも聞こえぬよう囁くような声で問うた。

「御懸念があられるのですね? 公は本当は……」
「ああ。だが今は話せない。ユーリィはどうした?」
「向こうで踊っていますよ。あれも何かを感じたみたいですが、それだから早く帰るようにと父上に言われやしないかと恐れて寄りつかないんです」

 ファルシスは苦笑混じりに答える。ユーリンダは人の言葉の裏を読む事は全く苦手だが、次期聖炎の神子としての力が、彼女に不吉な事が起こっていると感じさせたのかも知れない。常ならば不吉を怖がる彼女であるのに、それよりもダンスを楽しむ事を優先させたいとは、余程この祭事が惹きつける力が強いのだなとアルフォンスも愛娘の意外な一面を見た気がして思わず苦笑いした。

「一人で先に帰す方が物騒だろう。大勢といる方が安心だ。だがもしや誰かに言われるがままに、付いて外へ出たりしないよう、さり気なく見ておいて欲しい。わたしはまだ陛下へのご挨拶が済んでいないからな」
「その、誰か、は、ティラール殿やアトラでも、ですか?」
「無論、誰が相手でもだ。あの娘は宮廷にはまるで不慣れなんだから」
「心得ました」

 ファルシスの言わんとする事は解ったが、いくら最愛の娘と言えども、今、その恋の相手がどうだとかを考える余裕は流石のアルフォンスにもなかった。そもそも、ルーン家の一人娘に、そう軽はずみな真似を許せる筈もない。



 ローズナー女公爵、ブルーブラン公、ラングレイ公が近づいてきたので、ファルシスは遠慮して人混みの中へ紛れて行った。

「エーリクは……?」

 スザナの問いかけに、アルフォンスは黙って首を横に振った。三公爵は思わず溜息を洩らしたが、すぐにリッター・ブルーブランが、

「王妃陛下がお待ちです。ルーン公が席を外されたので、私に先にお相手を務めるようにと陛下からお沙汰がありましたので、順を違えましたがそのようにしましたから」

 と言った。エーリクは王妃のダンスの相手を務める途中で倒れて死んだ。何事もなければ、年齢の順に従ってエーリクの次はアルフォンス、最後にリッターとなる予定だった。

「王妃陛下はエーリクの容態について、国王陛下が皆に仰った通りに思っておられますのでそのつもりで、と宰相閣下に言われています」

 とリッターは付け加え、アルフォンスは頷いた。確かに、新婚、即位の晴れの日に、自分と踊っていた男性が急に吐血して倒れただけでも衝撃が過ぎるのに、ましてその人がそのまま息を引き取ったなどと聞かされるのは、若い新王妃にはあまりの心の負担になるというものだろう。

 人混みの中を抜け、国王夫妻のいる方へ歩を進めると、自然に人垣は割れた。ホールの正面には、国王夫妻の為の席が設けられている。王妃は衣装替えを済ませ、ゆったりと腰掛けて一座を見渡しながら美しい容に微笑を浮かべていた。王妃となったばかりとも思えぬ貫禄、先程の出来事に全くの動揺も表していないように見える様は見事である。ほっそりした身体を包むローブはお召し替えの前に纏っていたものと変わらぬ最高の純白の絹地に、今度は宝石の代わりに細密で美麗な金糸の刺繍がほとんど余すところなく縫い込まれている。焦茶色の髪は可憐な白い花を巧みに結い込み、たっぷりとしたカールを項に垂らしつつ金鎖の髪飾りで膨らませながら豊かに纏められていた。

 国王夫妻は傍らに立つ宰相を交えてフェルスタン帝国の使者と談笑していた。薄金茶の髪をしたやや背の低い使者、帝国の第二皇子にして将軍でもあるフェーン皇子は、国王夫妻にありきたりな追従を述べながら武人らしいいかめしい顔に作り笑いを浮かべていたが、近づいてくるアルフォンスに気付くと肩を揺すってほっとしたように一歩退いた。武人肌で社交というものが苦手な性質のようで、こうした人物を大使に立てる帝国は、人材不足であるのかそれともヴェルサリアを侮っているのか? と、秘かに囁かれている。ともかく、彼はアルフォンスに対して好意的な笑顔で、

「おお、ルーン公がようやくお見えだ。グリンサム公のお加減は如何でしたかな」

 と声をかけた。アルフォンスは、この異国の皇子に一礼し、国王夫妻に礼をとって皆に向かいながら、

「グリンサム公は、王妃陛下への不作法、目出度き宴を中断させてしまった事を大変悔いておりましたが、休んだ事で顔色はだいぶ良くなっておりましたようです。今は薬湯でよく眠っています」

 と、先程周りに集まった人々へしたのと同じ内容の報告をした。無論これは茶番であり、真実とはかけ離れた創作なのだから、このように言う度にアルフォンスの胸は痛んだが、表情にはまったく覗わせなかった。

(陛下はご存じなのだろうか?)

 新王エルディスは、心から案じている様子で、

「最近顔色が悪いとは思っていたが、あのように倒れる程の不調をおしての勤めぶりは見上げたもの、余は良き臣下に恵まれたと思うぞ。後で余も見舞うとしよう。宴の中断など何ほどの事もない。エーリクの無事を聞き、皆もうこのように愉しんでおるのだからな」

 と言った。これは芝居ではない、とアルフォンスは直感した。幼い王太子であった頃からよく知るこの若き王は、まだそこまでしたたかではない。この数十年、万全の態勢で大きな外憂・内憂もなく過ぎていた王国であるが、壮健であった前王のあまりにも急な事故死により、新王は突如その細い双肩にのしかかった王冠の重みを支える事で精一杯である。聡明な質故にいずれは歴史に残る賢王に成長するとアルフォンスは信じているが、今はまだ王国という重荷を大過なく背負う事に慣れようと必死である。臣下である宰相が王に偽りを信じ込ませる事など本来はあってはならぬ事ではあるが、宰相は王妃の祖父であるし、政の何たるかを知り尽くした老獪。この祝賀の席で若き王が動揺を見せれば、それはすぐに不吉な流言に繋がりかねない危険を孕む。諸外国へも、『ヴェルサリアの新王は小人』との印象を持たれかねない。臣下の死に眉一つ動かさぬ丈夫ならば兎も角、エルディスは心優しく繊細である。それは、上に立つ者として大事な資質であるとアルフォンスは考えるが、国をまとめ上げるまでは、邪魔にもなりかねない。だから、宰相が表向きに告げたのと同じ内容を国王に報告したのは王の為にも国の為にもよい事であった、とアルフォンスは己を納得させた。

「グリンサム公のご回復、何よりのこと」

 と、帝国の皇子がにこやかに言った。この皇子とは数日前に初めて顔を合わせ、小規模の晩餐会で無難な話をしただけであるが、どうも気に入られたようである。皇子は30を過ぎたばかりの独身、最初はただの気紛れかと思っていたが、もしやユーリンダを見初めての事ではないかと気になり始めているアルフォンスである。



 ともあれ、この舞踏会に臨むにあたって、しきたり通りに新王妃は大貴族以上の身分の男性とのダンスをこなさねばならない。その為にアルフォンスは王妃の前に進み出て跪き、

「一曲のお相手を務める栄誉を賜れますでしょうか?」

 と請うた。娘とそう歳も変わらない若い王妃は、鷹揚に頷き、立ち上がって、勿体をつけてアルフォンスの差し延べた手に右手を軽く乗せた。