人々の注視を浴びる中、アトラウスはユーリンダの手をとって中央よりだいぶ離れた左側の空いた区画へ進んだ。緩やかなステップから始まる『陽光のメヌエット』が奏でられ始めた。ユーリンダの気に入りの曲だ。彼女は一層笑顔を輝かせ、従兄のリードに身を委ねた。アトラウスはなるべく周囲で踊る人波に融け込んでしまいたかったが、光の結晶のような少女の滑らかな動きと零れんばかりの歓喜の表情は、今まで自分の事に気をとられていた者たちをも振り向かせる。この曲はアルマヴィラの夜会で何度も二人で踊った。その息は双子の兄とのペアの時に負けず劣らずぴったりと合っている。例え目を瞑っていても、次にどんな角度で手が差し伸べられるか、互いに考えるより先に身体が理解する。黒と黄金の舞い……だが、アトラウスはユーリンダとの間には、ファルシスとの時のような、『光と影』のイメージはない。むしろ、『昼と夜』……アトラウスは人を癒し包み込んで眠らせる、夜の神ナイオスのごとく優しげでかつ力強い印象を見る人に与えた。

(幸せ……この瞬間に死んでしまったっていいわ!)

 世間知らずな少女は周囲の喧噪も視線もまるで意識に入らず、ただ望み通りに初恋のひとと二人でメヌエットの調べにのってその腕に動きを委ねている事に最高の喜びを感じていた。この世界に二人きりでいるみたい……『陽光のメヌエット』が永遠に終わらなければいいのに、とユーリンダは思った。




「本当に不作法な妹で申し訳ありません」

 少し離れたところからそんな二人の踊りを眺めながらファルシスは隣に立つティラールに詫びた。いくら約束があろうとも、アトラウスは勝手に席を外していたのだから、本来、身分如何は別にしても、この場で先に申し込んだティラールに権利があったのだ。

「いいえ、詫びて頂くなどとんでもない。妹君は本当に純粋な方のようだ。わたしの誘いを断った女性は、ユーリンダ姫が初めてです」
「それは……本当に申し訳なく」
「いやいや、わたしは楽しんでいるのです。簡単になびく女性達には少し飽きてきていたところです。姫はルーン公殿下のたった一人のご息女で、聖炎の神子の跡取りと聞いております。どうでしょう、わたしでは姫の夫として役者不足でしょうか?」
「それは……」

 ファルシスは何と答えてよいものやら判らない。今回の式典が初対面であるのに、いや、それよりも、かれの父親の宰相もアルフォンスも与り知らぬところで、例え冗談でも簡単に口にするような事ではないのに。唐突な言葉に目を白黒させているファルシスにティラールは気づいたが、

「申し訳ありません、わたしはどうも宮廷式の衣を着せた物言いが苦手なのです。しかし確かに、まずは姫君のお心を射止めねば話にもなりませんな。まあ、こう言うからには、きっとそうなるという自信があるからなのですが。姫を見た瞬間、わたしには判りました……この方こそがわたしの運命の女性なのだと」

 と臆面もなく小鳥が囀るように楽しげに語る。運命の女性などと、まるで芝居か物語の台詞のようだな、とファルシスはその言葉を冷ややかに受け止めた。七公爵家の正妃の子どもとして生まれたからには、結婚相手を決めるのは運命でもないしましてや自分の意志でもない。家であり、父親なのだ。自分の両親は随分型破りな結婚をしたものだが、その為に父がした苦労や犠牲にしたものを考えると、今の自分には同じような覚悟は到底持てないと思っていた。

(父上と宰相閣下の間できちんと話し合いがなされて、この公子が婿に来て下さるというのなら、釣り合いはとれるだろうが、ユーリンダの外見だけにとらわれて深く考えもせずにただ思った事を口走っているのならば、噂通りの愚か者なんだな)

 社交的な笑みを浮かべつつもファルシスはそんな風にティラールを分析した。

「わたしの夢は、歴史に残る数の愛妾の持つ事です。女性を愛する事くらいしかわたしには取り柄はないですからな。その頂点に姫に立って頂けたら……」

 こんな事まで言い出したのでファルシスは更に呆れたが、

「妹の前では仰らない方がよいかと思います。我が父は愛妾を持たないので、妹はそうした女性の存在に慣れていません」

 と、辛うじて返した。この時ようやく、そのアルフォンスが息子の方へ足早に歩いてくる姿を見せた。

「父上!」

 心からほっとしてファルシスは父親を見た。長く感じはしたが、それでも舞踏会はまだ序盤である。なのに、その間にユーリンダをうまく御せずに人目をひいてしまった自分の力不足を悔しく思った。ユーリンダを巡ったこの小さな騒動は、結局関わった四人全員の評判を落とす事になるだろう。我が儘で不作法なルーン公の姫とそれを制しきれない兄。女性に恥をかかされたのに、笑いながら二番目に踊るつもりでいる宰相の息子。そして、仕方なくとはいえ、身の程を弁えずに目上の相手を押しのけた形になってしまったアトラウス。

 詫びを言って起こった事を説明しようとして、ファルシスはふと眉根を寄せた。アルフォンスはきちんと髪を整え、衣装の汚れも払って、傍目には特に変わりもないように見えるが、傍近く寄った息子には、父がただ穏便に話をしてきた訳ではなく、何事か危険があったのだと嗅ぎ分ける事が出来たからだ。

「父上、いったい何が」

 ファルシスは他の誰にも聞こえぬよう小声で問うたが、アルフォンスはいつもの穏やかな様子で、

「何も心配はいらない」

 と囁き返した。
 ああ、まただ、とファルシスは落胆する。せめて、「後で訳を話す」と言ってくれればいいのに、父にとって自分はまだ、相談役たり得ないのだ。妹一人操れない自分であるから仕方がないのかも知れないが、自分はもう一人前なのに。




 アルフォンスとしては、自分にも事情が全く把握出来ていないものを、年若い息子を巻き込む気にもならないのは当然の事であった。娘に対してはその純真さが愛おしくて甘やかしてきてしまったが、息子には、次期ルーン公として己を超える人間になって欲しいという希望から厳しく接する事もあった。だが、ファルシスはそれをよく理解して研鑽を積んでいると思っている。息子に対して物足りなさを感じた事は一度もない。その気持ちが伝わっていないと思った事もなかった。

 かれはファルシスからユーリンダのダンスの騒動について聞き、溜息をついた。エーリクは、自身の深刻な何かを他人に洩らすのを宰相に知られる事を極度に恐れているように思われた。宰相は今までもこの国の権力者――国王の次に――だったが、今回の妃選びの結果によって、国王にこれまで以上に大きく影響を及ぼせる立場にのし上がった。その息子に恥をかかせた事は、例え息子本人が気にしなくても、宰相が面白く思う筈もない事は容易に想像がついた。

「娘が失礼をしたそうで、申し訳ない、ティラール殿」

 そう話しかけると、宰相の息子は、その父親が全く見せた事もない屈託のない笑顔で、

「とんでもございません。お約束があったそうなのにわたしが余計なお声かけをしてしまって、却ってご迷惑をおかけしてしまいました」

 と答える。父親譲りの虚栄心を持った兄たちとは確かに違う性質を持っているようだ、とアルフォンスも感じた。

「わたしは普段、従者一人を連れて気ままに各地を旅しています。この祭りが終わったら、アルマヴィラに伺ってもよろしいでしょうか?」
「それはむろん、いつでも歓迎します」
「つかぬ事をお尋ねしますが、ユーリンダ姫にはまだ定まった結婚相手はおられないのですね?」
「……ええ」

 一呼吸おいたが、アルフォンスは正直に答えるしかなかった。急速にこの若者への警戒心が湧いた。そもそも、あの自他共に対して厳しい宰相が、何の目的もなく息子を遊ばせておくなどという事があるだろうか? 噂ではどうしようもない放蕩息子で宰相も匙を投げているという話だったが、それは見せかけの姿であり、その実は何らかの命を受けて各地を回っているのでは……そんな疑問がふと芽生えたのである。

(……いや、仮にそうだとしてもわたしには関係のない事だ。宰相に探られる理由もないし、後ろ暗いこともないのだから)

 またエーリクの話が頭を掠めた。彼ももう会場に戻ってきている。

『きみ自身の身にも関わる事であるし』

 あれはどういう意味だったのだろうか。そして何故、アルマヴィラ人の曲者が彼を襲ったのか。結局何ひとつ解らず、謎が深まっただけであった。誰が何と言おうと、明日には彼の私邸へ行って話を聞かねばならない、そして彼を救わねば、とアルフォンスは強く思った。

「曲が終わったようですね。では失礼して姫君のお相手をさせて頂きます」

 一礼してティラールは歩み去っていった。

「父上、彼はユーリィを、運命の女性だなどと言っていました」

 ファルシスが小声で告げると、アルフォンスの憂鬱な気分は一層深まった。




「ユーリィ、一曲終わった。伯父上もお戻りのようだし、きみはきちんと社交をこなさなくてはいけないよ。ルーン家の一の姫として……」
「判っているわ。でも、また後で一緒に踊ってね?」
「きみがへとへとになっていなければね」

 アトラウスはいつもの落ち着いた笑顔を浮かべたまま、ユーリンダの手を離した。向こうからティラールが近づいてくる。ユーリンダは夢のような時間の余韻に浸っていたかったが、アトラウスの言葉で否応なく現実に引き戻されて軽く溜息をついた。

(『陽光のメヌエット』は私たちの素晴らしい思い出の曲ね? ねえそうでしょう、アトラ……)




 ……ずっとずっと後になっても、彼女は『陽光のメヌエット』を耳にする度にこの夜の事を思い出さない訳にはいかなかった。それは、この時に彼女が心に描いていたような甘い夢の序曲ではなく、この夜を境に少しずつ運命の歯車が歪み始めた悪夢を思い起こさせ、いつまでも彼女の胸の癒えない傷を掻きむしることとなった。