美の女神の名を冠した舞踏会の会場アデットホールでは、そのすぐ傍で、月光の影に隠された危険な陰謀が繰り広げられていた事など人々は知る由もなく、めでたさに酔いしれてこの上なく華やかで幸福なひとときが流れてゆくばかりだった。
 国王は美しい新妻の底知れぬ緑色のひとみにただただ釘付けになり、いつまでも彼女を放さずに二曲目、三曲目と踊り続けている。曲は緩やかなものから次第にステップの難易度を増した複雑なものに変わりつつある。だが、新王夫妻は見事なまでに洗練された姿勢を瞬時も崩す事なく、息の合ったダンスを披露し続けた。

「リーリア、リーリア」

 曲の合間に王はそっと新妻に囁きかけた。

「はい、陛下」

 蠱惑的な笑みを浮かべて王妃はじっと夫の鳶色の瞳を見つめ返した。驚く程細い腰に回した王の手が、思わずびくりと震え、聡明で知られる若い王はそれ以上何を言いたかったのか分からなくなった。酒には口をつけた程度であるのに、国王エルディスは酩酊状態にあるような気分だった。

「……そなたに酔った」

 エルディスはそれだけ言うのがやっとだった。リーリアは持てる限りの優しさをこめた微笑みを返して頬を赤らめた。国王の心を掴むという、彼女の王妃としての最初の仕事はこの上なく順調にこなせている事に間違いはなかった。宰相バロック公の孫娘である彼女は、祖父から自分の役割をよく弁えさせられている。即ち、バロック家の為に、王の心を常に引き寄せ、祖父の意に添うように若い国王へ働きかけることである。勿論、バロック家の血を引く王太子を一刻も早く産む事も、同じくらいに重要な役割である。この役目を果たす事と引き換えに、彼女は王国で最も高貴な女性という地位を手に入れたのだ。王妃となり得たのは、祖父の大きな力があってこそのもので、祖父に逆らう事は出来ないと――少なくとも、祖父が健在であるうちは――と、賢しい彼女は充分に理解している。

 ただ、祖父がいくら力を持っていると言っても、幾分かの運命の導きがなければ、或いは自分はこの腕の中にいなかったかも知れない、ともわかっている。王妃候補の対抗馬……ローズナー家のフィリア、ラングレイ家のアンナ……それから、ベイロン神聖国の姫君やフェルスタン帝国の皇女の名まで挙がっていたと聞いている。しかし、リーリアを含むそれらの王妃候補の中で、当初、王太子だったエルディスが最も興味を示していたのはルーン家のユーリンダだったと、確かな情報を得ていたのである。父親のルーン公がこれを固辞しなければ、今ここで賛美を浴びているのは彼女だったという可能性も充分あり得たのだ。それ故に、まだ姿も見ぬうちからずっと、リーリアはユーリンダを憎んでいた。聞けば彼女は父親のルーン公や兄のファルシス公子によく似ているという。どちらも宮廷でも指折りの美男子と誰もが認めるところ。既に二年ほど前から、父に伴われて宮廷に出入りするようになっていた彼女は二人の容貌をよく知っていたし、二つ年下だが既におとなびた雰囲気を持った煌めく若きファルシス公子に胸をときめかせた時すらあったのだ。あのファルシス公子の双子の妹ならば、どんなに美しい娘だろうか。リーリアは自身の美貌に自信を持っていたが、あの特別な黄金色の髪と瞳を持っていない事は認めない訳にはいかなかった。ユーリンダはリーリアの中で、常に意識される邪魔な存在だったのだ。

 正式に王太子と婚約を結んだ後で、晩餐会でルーン公と会話を交わす機会があった。

『ご息女のユーリンダ姫と是非お友達になりたいものですわ。年齢も身分も近いのだし、きっと仲良くなれると思いますの』

 ルーン公は微笑して、

『ありがたいお言葉ですが、娘はなにぶん田舎育ちの不調法者ですから、未来の王妃陛下のお話相手が勤まりますかどうか』

 と柔らかく遠ざけようとした。リーリアは自分の意図が読まれていると思ったが、

『ルーン公殿下のご息女ですもの、そんな事を仰ったって、実際は素晴らしい方であるに違いないですわ。お美しいとのお噂もかねがね伺っています。結婚式に来て頂いた際には、是非わたくしのサロンにお招きしたいですわ』

 と更に言葉を重ねた。この頃には、彼女は完全に誰もが認める勝者であったが、苛立たせる存在であったユーリンダを笑いものにしてやりたいという復讐心を隠していたのだ。ルーン公が美しい筈の娘を宮廷に伴わないのは、礼儀作法もろくに身につける事が出来ない知性の低い娘だからではないのか、という噂があって、リーリアも半ばそれを信じ、そしておおやけの場で嘲笑の的にしてやれたら胸もすくだろうと、取り澄ました笑顔の下で考えていたのである。ルーン公は少し困惑したように、光栄です、と答えるしかなかった。

 リーリアは、ルーン公アルフォンスを好かなかった。父親のシャサールが悪口を言うのを幼い頃から耳にしていた事も大きいが、それ以上に、リーリアには、アルフォンスが、恵まれた立場にいながらそれを利用しようとしない、覇気のないつまらない男に思えたのである。穏やかで誠実である事は、祖父譲りの野心家であるこの若い娘にとって、何の美点にも思えなかった。

 さておき、ユーリンダ・ルーンへの憎悪は、思いがけずも結婚と同時に即位、という慌ただしい事態に取り紛れてすっかり忘れていたが、その彼女が父と兄に伴われて初めて王宮へ姿を現した時、リーリアの胸の澱は急速に影を濃くしていった。光輝くルルアの化身のごときユーリンダは、地味で堅苦しい装いにも関わらず華やかで、瞬時にその場にいる人々を魅了した。緊張の面持ちではあったものの、立ち居振る舞いも大貴族の姫君として他の公女に劣らぬもので、王太子とその婚約者にも型どおりではあるがきちんとした挨拶をした瞬間に、わるい噂はなくなってしまった。人々がユーリンダを褒めるたびに――勿論、王太子妃にはそれ以上の賛辞を述べた上でだが――リーリアは頬が引きつるのを感じた。王太子の心が既に自分に釘付けで、他のどんな美しい女もろくに目に入らぬ様子であるのが救いではあったが、彼女は、自分以外の女が同じ空間にいて賛美される事に寛容でいられる性格ではない。そして更には、その感覚は、事もあろうに、生涯で一番の晴れ舞台である結婚式と即位式の間も続いていたのだ。王妃の見ていないところで、王妃に聞こえないように、黄金色の髪の娘を賛美する者たちを、リーリアは全て把握して、そして憎んだ。
 舞踏会でも……まずは人々の注目と賛美と祝福は惜しみなく我が身に注がれて喜びと誇らしさに包まれたものの、輪が崩れて皆が踊り出すと、人々の目はそろそろと違う方にも向かい出した。ルーン家の双子の兄妹である。緩やかな曲にも速いステップにも、二人の呼吸はぴたりと合っている。ユーリンダにダンスを申し込もうと殺到した若い貴族たちも、この輝くような兄妹を目の当たりにして、次に申し込む勇気を失う者も出てきている。そうでない者も、口々に二人の美しさとダンスの技術を褒め合い、一対の芸術品を愛でるかのように眺めていた。

「アトラったらどこへ行っちゃったのかしら? きっと一曲目は一緒に踊ってねって約束していたのに」

 三曲踊っても待ち人は姿を見せない。ユーリンダは少し唇を尖らせて兄に向かって呟いた。ファルシスには、従兄アトラウスの心がわかる気がしていた。遠慮しているのだろう。これだけの注目を浴びているルーン公爵の姫が最初に踊る相手は、当然、彼女の許婚候補の一人、いや筆頭と目されるに違いない。アトラウスはカルシス・ルーン伯爵の子息だが、ユーリンダがどう望もうと、この舞踏会には彼よりも身分が高く年齢の釣り合う貴公子が大勢いるのだ。

 ユーリンダとアトラウスが、運命の出会いをしてから12年、おとなと言われる年齢になったふたりは、ファルシスの目から見れば微笑ましい間柄になっている。ユーリンダはいつも、ひとつ年上の従兄を慕い、幼い頃は、普段は明るくしていても時に沈み込む事もあるアトラウスを励まし無邪気に寄り添い、おとめに成長してからは、誰の目にも解るくらいに彼を恋い慕っている。一方、アトラウスの方も、普段は誰にもその心のうちを見せる事なく穏やかに過ごしているものの、実の兄弟に等しい間柄のファルシスに対しては、ユーリンダに対する愛おしさを語っている。それでいて、ふたりは手を握り合う事も恋を語らう事もない。会えば他愛のない世間話に終始しているばかりである。だがファルシスは、そんな二人をじれったくは思うものの、後押しするような事はしなかった。ユーリンダはルーン公の一人娘で、将来は母の跡を継いで聖炎の神子となる身である。恋愛の自由など、常識で考えて許される身分ではないのだ。ユーリンダ自身はそんな事は微塵も思わず、おとぎ話のように愛しい貴公子と結婚して幸せに暮らす未来を夢見ているが、実際は娘の結婚相手を決めるのは父親である。父親より歳上の男に嫁がされる例だって珍しくもない。だが、そうした常識を打ち破って結ばれた両親を見て育ったユーリンダは、自分にもそれが許されると信じて疑わない。
 実際には、父が自分たちの結婚についてどう考えているのか、ファルシスにもよく解らない。もう許婚が決まっていてもおかしくない年齢ではあるが、急いで決めなければならない訳でもない。縁談は既にいくつも舞い込んでいたが、父は特に誰をと勧めてくる訳でもない。ファルシスにとって、妃選びは色々な意味で煩わしい事でしかなかったので、自分から話題に出す事は気が進まなかった。

「私たち、ちゃんと出来ているみたいね? 何だか褒められているみたい」

 周囲の賞賛の声は、ユーリンダの耳にも届いていた。しかし特別に目立っているとまでは分かっていない様子である。ましてや、王妃の憎悪がおのれに向かっていようなどとは。ファルシスは、自分たちを褒めそやす声や視線に紛れて、棘のある気を感じていた。こちらを見る素振りなど微塵もないが、それが王妃のものであると直感できた。父が前もって気をつけるよう警告してくれていた事も大きい。

『王妃陛下は才気溢れる素晴らしい女性だ。だがそれ故に、なかなかお気の強い所がおありだ……だからユーリンダ、きみは特に、分を弁えた行動をとるよう注意しなければならない。舞踏会を楽しみにするのは良いが、今回は特に、王妃陛下のお披露目の為のようなものなのだから、他の全ての女性は王妃陛下の引き立て役でなければならない。わかったね?』
『もちろん、アルマヴィラと違う事くらいわかっているわ、お父さま。私、アトラと隅の方で踊っているわね』

 そんなやり取りから、ファルシスは父の言わんとする事を察していた。目立ちすぎて王妃の不興をかわないように。……しかし、常にない派手やかで浮かれた空気に飲まれて、彼もついいっとき、その事を忘れて、最も息の合うパートナーである双子の妹とのダンスが心地よく、踊り続けてしまった。

(父上はどうされたんだろうか。やけに遅い……)

 ダンスへの集中がほどけると時間の感覚が戻ってきて、色々と気がかりになってくる。父の不在を誤魔化す為もあったとはいえ、少し、目立ちすぎた。そして未だ父の姿もグリンサム公も見当たらない。自分たちも少し姿を隠して、ユーリンダが人に酔って具合を悪くした態でも装った方が無難ではないだろうか?

「ユーリィ、疲れたんじゃないか? ちょっと隅で休まないか」
「あら、私まだ疲れてなんかないわ」

 兄の気配りの意味など、温室育ちで単純なユーリンダには解る筈もない。父との約束も、アトラウスの姿が見えない事に気を取られて、すっかり忘れている風である。

「アトラが来るまで、一緒に踊っていましょうよ。お父さまはそんなに遅くまでは、と仰っていたし。そういえば、お父さまは? さっきのグリンサム公殿下のお話を聞きに行かれたのかしら?」

 皆が関心を寄せる中、よく通る澄んだ声で、ユーリンダは無邪気に兄に言った。