「脅しとはどういう意味だ。仮にも大貴族に対して、しかも王宮内で矢を向けるなどという事態を看過していい訳がなかろう! わたしが気付かなければきみは矢に射貫かれていたんだぞ!」
「きみが気付くのを相手は判ってやっているんだと思う。王家の騎士団長にもひけをとらぬ名剣士だ。殺気を感づく事くらい造作もないだろうと」
「そんな馬鹿な。何の益があってそんな事をする?!」
「益は、言ったろう、私の口を塞いでおく為さ。我々がここに来るのを感づいた者がいるとみえる。だが実際、本当にここで私が殺されれば、大騒動になる。だから殺す気はない筈さ」
 そう言ってエーリクは儚げに微笑した。しかしアルフォンスは全く納得がいかない。瞬時考えた後、エーリクを大樹の陰に隠したまま、かれはいきなり物陰から歩み出た。腰に儀礼用のレイピアを佩いてはいるが、盾になるようなものは何ひとつ持ってはいない。
「アルフォンス!」
 さすがにエーリクが驚きの声を上げる。
「きみの言う通りなら、攻撃してはこないだろう」
 アルフォンスは半ば不機嫌に、半ば不貞不貞しく言う。舞踏会は宴もたけなわ、宮廷楽士たちの奏でる美しい調べとひとびとの笑いさざめきあう声が後から後から溢れ流れてきては庭園に零れ散ってゆく。雲一つない涼やかであかるい月夜だった。命を賭けた応酬の行われているこのほんの小さな人目につかない区画だけが緊迫に張り詰めて、まるで別世界のようである。敵の気配を探りつつも、アルフォンスの額に汗が滲む。もしもエーリクの読みが外れていたら。物理的な攻撃はそれでも避ける自信はあったが、万一卑劣な罠が周到に張られていたならどう転ぶか解らない。だが、敬愛する新王の華やかな舞台を自らの血で汚すなど真っ平御免である。
「出て来るがいい、そこの者。ルーン公とグリンサム公に対してと承知の上での狼藉か。返答如何ではこの場で斬り捨てる」
 静かに、だが僅かも威厳を崩さずにアルフォンスは闇に潜む者に呼びかけた。闇の中から獲物を狙う者と、相手の正体も知らずに狙われる者、とは傍からはとても窺えぬ落ち着きように、エーリクは内心舌を撒く。
(アルフォンス、やはりきみは……)
 かさり、と草葉が音を立てた。アルフォンスの研ぎ澄まされた気に圧され、隠れ果せる事は不可能と判断したようだった。聞き覚えのない若い男の声が闇の底から囁くように伝わって来た。
『お許し下さい、ルーン公殿下。姿を見せる訳には参りませんが、これ以上の手出しはせぬと誓います。どうかこの場はお見逃し下さいませ』
「それで済むと思うのか。いったいどうやってこの場に忍び入ったのだ。目的はなんだ」
 声と気配により、アルフォンスは完全に相手の潜む位置を突き止めた。尤も、それがなくても男が次に動けば把握出来ていた。レイピアはいつの瞬間でも抜き放てるように静かに構えながらかれはそちらへ一歩近づいた。見逃すつもりは毛頭ない。相手はエーリクに、そして王家に仇なす暗殺者だ。
『それは、グリンサム公殿下がよくご存じの筈……』
 暗殺者の低い声に、
「解った、決して言わない。そもそも、ルーン公を呼び出したのは、秘密を打ち明ける為ではない。ただ、身内の事を頼みたかっただけだ。私事なんだ。だからもう立ち去ってくれ、頼む」
 エーリクが懇願するように言う。アルフォンスは眉を吊り上げた。
「何を言う。これは最早きみ一人の問題ではない! このような事を見過ごせる訳がない!」
「お願いだ、表沙汰にしないでくれ。きみ自身の為にも」
「さっきから何を言っているのかさっぱり解らない! もっと解りやすく言ってもらえないか!」
 その口論のほんの僅かな隙をつき、曲者はさっと身を翻した。間をあけず、アルフォンスは言い争いを一旦捨てて向き直る。視線は男の影を微かに捉えた。距離はあったが止められると感じた。木陰を抜け、闇に紛れて駆ける曲者の姿そのものは見えないが、その放つ気配は手に取るように判る。こちらとて、この庭園の構造は熟知している。張りめぐった枝の隙間、僅かな空間をくぐり抜けて何かが一直線に飛んだ。
「うあっっ!!」
 闇の中から押し殺した悲鳴が届いた。アルフォンスが放ったのは、先程拾っておいた曲者の放った矢。それが男の脹ら脛に深々と刺さっていた。アルフォンスはレイピアの鞘を払いながら地に伏せた曲者の所へ駆け付け、喉元に切っ先を突きつけた。
「誰の命でやった事か、言ってみよ」
「……」
 物陰に蹲った男は、悔しげにアルフォンスを睨み上げた。顔も髪も布で覆い隠しており、ただその意志を持った黒い瞳だけがアルフォンスの脳裏に刻みつけられた。
「おまえはまさか、アルマヴィラの者なのか?!」
「……」
 曲者は答えない。その時、軽く息を切らせながらエーリクが追いついて来た。
「アルフォンス! その者を王宮騎士団に引き渡すつもりなのか?」
「無論だ」
「やめてくれ、そいつが拷問で口を割ってしまったら……」
「エーリク。きみはいったい誰の味方なんだ? 王宮に忍び込んだ暗殺者を庇うとは何事だ。放置すれば陛下御自身の身の安全にも関わるやも知れぬ」
「庇う訳ではない。陛下の身には何もない。絶対だ、私を信じてくれ」
「いくらきみの言う事でも、充分な説明もせずにそう言われて納得出来る筈がないだろう!」
 くくっ、と曲者はレイピアを突きつけられたまま、低い嗤いを洩らした。二人の公爵は口論を止めて不審げに男を見た。
「拷問で口を割るなど……そのような軟弱な心は我らは元より持ち合わせてはおりませぬ。しかしグリンサム公殿下が秘密を漏らすお方ではないという事は得心できました。今のそのお気持ちを、ゆめお忘れなきよう……」
「待てっ!!」
 男の意図を悟り、アルフォンスは咄嗟に男の腕を掴んだ。だが既に男は懐に隠し持っていた自害用の毒を含んでいた。
「……ルーン公殿下……ルルアの……」
 男の言葉は最後まで続かなかった。血を吐き、男は息絶えた。
「なんという事だ、なんという不祥事だ!」
 憤懣やるかたないといった風にアルフォンスは吐き捨てた。常日頃温厚で知られるかれだが、この時は流石にあまりの予想外の出来事に神経も高ぶり、また何よりも、新王の晴れの日にこのような血が流された事が不吉に感じられてならず、暗殺者への怒り、そしてエーリクへの不満が先に立った。狙われたのが自分であるならここまでの怒りは湧かなかっただろう。だが、おのれが狙われていながら理解不能な言動を繰り返すエーリクに対しては、もどかしさがただ増して、問い詰めずにはいられなかった。
「いったいどういう事なのか説明しないつもりなら、今すぐに王宮騎士をここに呼ぶ。だいたい、わたしを呼び出しておいて、何も言えないが自分は殺されるから何かを頼みたい、だなどと、そんなあやふやな話をわたしが、そうか解った、と受け入れると思ったのか。わたしがまず力を貸したいのは、きみの安全についてだ。理不尽な話は一切聞きたくない。どうすればきみを救えるのか、それをまず話してもらいたい!」
 銀の月光を浴びて、アルフォンスの黄金の髪も怒った瞳も、何とも言い知れない不思議な輝きを放っている。エーリクは眩しげに友人のその姿を見つめた。
(ああ、そうだ……結局、変わっていない……あの少年の日々から、かれは何も……)
 あの頃、バロック公の息子シャサールからしょっちゅう嫌がらせを受けて、それでも沈黙が一番の盾と思い、黙って耐えていた。その状況に黙っていられなくなったのがアルフォンスだった。かれはいつもエーリクの盾になり、シャサールの一派からの陰湿な攻撃に堂々と対応していた。子ども同士の諍いでも、命のかかった謀略でも、アルフォンスの行動原理は何も変わっていない。不正を見逃さず、大事な存在を護るという事。護るべきは、王であり、家族であり、民であり、友人である。エーリクは初めて、かれに何もかも打ち明けてしまいたい、という衝動に駆られた。それがどんなに危険で、アルフォンスをも彼自身が呑まれかけている死の淵へ導く奔流に共に巻き込む高い可能性を秘めているか、充分に解っていた筈なのに。
「アルフォンス。私は……私は、とんでもない秘密を偶然に知ってしまったんだ。知っての通り、私は王立図書館の司書長の権利を貰っている。私は……」
 早口でそう言いかけた時。がさり、と草を踏む音がした。
「そこにいるのは誰だ?」
 はっと二人は振り返った。足元には死体が転がっている。いずれ王宮騎士団に引き渡すなり何なり、どうにかしなければならないにせよ、今ここで騒がれるのは避けたかった。声をあげかけたエーリクを制し、アルフォンスは落ち着いた態度で自ら進み出た。
「わたしだ。その声は……」
「なんだ、『ルーン公殿下』、きみか!」
 アルフォンスはエーリクに目配せした。その意味を察してエーリクは出来る限り素早く身を隠しながら場を遠ざかった。これ以上話すのはもう無理だ。それに一時の感情の高ぶりが治まると、また静かな諦念がエーリクを包み、あれ以上言わなくて良かった、と却ってほっとしてもいた。肝心の頼み事は結局言い出せないままだったが、まだ時間が全くない訳ではない。

「殿下はよしてくれ。ここにはきみとわたししかいない」
「なんだって?! なぜそんな嘘を言う必要がある? 確かに男の話し声がしたぞ。こんな場所で謀りごとなど、らしくもない。それにしても、そんな言葉で誤魔化そうとは、随分低く見られたものだ」
「とんでもない、金獅子騎士団長どの。言葉が足りなかっただけだ。生きている人間はわたしたちだけだ、と言いたかったのさ」
「なんだと?」
 アルフォンスの言葉の不吉な意味に気付き、表情を険しくしながら大柄の男が姿を現した。騎士の礼装に身を包んだ鳶色の髪と瞳の男、歳のころはアルフォンスとそう変わらぬが、いかつい感じがかれを年長に見せている。かつて十代の頃に国王の御前試合でアルフォンスと名勝負をし、それ以降親友の間柄でい続けている、王家直属の金獅子騎士団団長、ウルミス・ヴァルディンであった。