翌朝まで泥のような眠りに落ちていたカレリンダは、目覚めるとすぐに身支度を調え、憑きものが落ちたような面持ちで昨日のことを夫に詫びた。
「申し訳ありませんでした、あなた……子どもたちの前であんなことを口走るなんて、わたくし、どうなっていたのでしょう……? 多分、シルヴィアに自分を重ねて、子どもたちが如何に大切かを一層感じていたところに、ルルアの否定……つまりはわたくしの存在意義の否定をされた気がして、神経がおかしくなってしまったんでしょうね。本当に情けないわ。こんなに自分が未熟だったなんて。あんなに幼くて傷ついた子どもの言葉にかっとなるなんて」
「解ってくれればいいんだよ、カリィ」
 迷いながらも自身を冷静に分析しようとしている妻の言葉にほっとして、アルフォンスは穏やかに言った。
「母性の暴走というのは、わたしにも理解できるとは言えないが、それだけきみが子どもたちを愛しているという事なんだろう。その愛情を、あの可哀想な甥にも少し分けてくれるとわたしは嬉しい。わたしにとって、たった一人の血の繋がった甥っ子だ。シルヴィアに対しては、ただ罪悪感でいっぱいなんだ。あの子がシルヴィアの望み通りに幸せに成長してくれれば、わたしの罪悪感も少しは拭われる」
「勿論、わたくしだって……あなたのせいではありませんわ。わたくしがシルヴィアからあなたを奪ったのですから。シルヴィアがルルアのもとで安らかに過ごせるよう、アトラウスが立ち直って正しいルルアの子になるよう、尽力しますわ」
「じゃあ、今日は子どもたちとアトラウスを会わせてもいいね?」
「……ええ」
 カレリンダは、まだ少し無理をしているような曇った微笑を浮かべて頷いた。
「わたくしは、残りますわ。また変なことを口走ってしまってはいけないし……子どもたちの事は、あなたにお任せします」
 任されても、絶対うまくいくという自信もないのだがな、と、アルフォンスは心中自嘲気味に思ったが、大丈夫だよ、と表面上余裕を見せて妻を安心させるよう努めた。昨日の錯乱について、どうやらカレリンダ自身もはっきりとした理由が判らない様子だ。この事は、もっとよく考えてみるべきなのかも知れない。しかし今は、アトラウスを救う事を先に考えなければ。アルフォンスはあの痩せこけた子どもが、このまま病み衰えて母の後を追ってしまうのではと不安だった。

 こうして、アルフォンスは再びふたごを連れて弟の館へ出向いた。
「伯爵さまは、誰にも会いたくないと仰せで、部屋に閉じこもっておいでです」
 アルフォンスは執事の言葉に呆れて思わず、
「じゃあいったい誰が葬儀を取り仕切るんだ?」
 と叫んだ。
「葬儀は明後日でございますから、それまでには出てくる、と仰せでした。それまでの手配は全部わたくしめがやるようにと……」
 執事も随分やつれた様子だ。この、ロータスという執事は、物静かで謙虚なシルヴィアが伯爵妃として嫁いで以来、誰にも言えぬ淡い想いをシルヴィアに寄せていた。誰一人……無論シルヴィアも気づくこともなく……。あるじの暴走を止める事もかなわず、シルヴィアにあのような最期を遂げさせてしまった事で、この男は自分を責め続けていた。何もかも知っていたのに、あるじに忠実である事が自分の責務と考えてきた。だが、こんな事になるなら、アルフォンスなりダルシオンなりに、独断で助力を請えばよかった……そんな後悔に呵まれていたのである。しかし、この慌ただしい中で、そんな彼の心中に気づく者もなく、あれはどうするのか、これはどこに置くのか、という侍女たちへの対応に追われていた。
 勿論、アルフォンスもシルヴィアへの追悼とアトラウスの今後の事で頭がいっぱいで、執事の葛藤などに気が回る訳もない。
「アトラウスは? 何か食べたか?」
「いいえ、何も……白湯は少し口にされたようですが、お食事は拒否されています」
 五歳の子供が、昨日から今日まで何も食べていないとは……それなのに父親は構いもせずに自室で現実逃避を続けているのか、とアルフォンスは焦りと苛立ちを深める。
「今からうちの子どもたちと話をさせる」
「はい……どうか、若君をお救い下さいませ」
 ロータスは目を赤くしながら言った。

「アトラウス!」
 ふたごは、相変わらず布団に潜っているアトラウスに近づいた。アルフォンスは室の外で様子を窺っている。
「……」
 アトラウスは返事をしない。
「ね、お外へ行こうよ。ここでじっとしてたら、叔母さまがかなしむよ?」
 ファルシスが父に習った通りに言った。
「……きみに、何がわかるんだい」
 アトラウスは、怒りと悲しみにくぐもった声で布団の下から応えた。
「お母さまはいなくなった。だからもう、ぼくのことでかなしいと思うこともないんだ」
「叔母さまはルルアの国からアトラウスを見ていらっしゃるのよ? アトラウスが元気にならないとかなしまれるわ」
 ユーリンダは、なんとかこのきれいな黒い目のいとこが一昨日のように明るく笑って欲しい、と願いながら言った。
 幼いふたごには、ひとの死、というものが真に理解できている訳ではない。悲惨なシルヴィアの死に様を見た訳でもない。でも、もしもお母さまが自分たちを置いてもう二度と会えない所へ行ってしまったらどんなに悲しいか、それは想像できた。
「ルルアの国ってどこにあるの? そんなに言うなら、ぼくをそこへ連れて行ってよ!」
「生きている人は、ルルアの国には行けないのよ」
「そんなら、誰もルルアの国を見たことがないんじゃないか! どうしてそんな場所があるってわかるの?!」
「聖典に書いてあるじゃないか」
「聖典なんてただの本じゃないか!」
 聖典は何よりも大切なものと教えられてきたふたごは、いとこの言葉に驚いた。
「そんなこと言っちゃだめだよ、アトラウス! 聖典はルルアが人間につたえられたとても大切なものだよ!」
「ルルアなんか嫌いだ! いくらぼくが『罪の子』だからって、お母さまをあんなふうにしてしまうなんて!」
「ルルアの悪口を言ったら、死んだときにルルアの国に行けなくなるんだぞ! そしたら、もうお母さまに会えないぞ!」
「ルルアの国なんかない! お母さまにはもう会えない!」
「アトラウスのわからずや!」
「きみなんかにぼくのきもちがわかるもんか! きみには優しいお父さまとお母さまがいるんだからな! もうぼくにかまわないでよ!」
 布団から起き上がったアトラウスとファルシスは睨み合っている。
 ユーリンダは胸が痛くなってぽろぽろと泣いた。アトラウスはそんなユーリンダに見向きもしない。一昨日はあんなに優しく笑ってくれたのに。ルルアの国がないなんて、どうしてそんな悲しいことを言うのだろう?
「アトラウス……ルルアの国は、あるわ」
 そう言って、そっと従兄の手をとった。最初は反射的にその手を振り払おうとしたが、年下の愛らしい従妹のあまりに悲しそうな表情に、思わずアトラウスの手は止まった。
(ユーリンダ……あなたの力を、少し貸してちょうだいね)
 声なき声が、幼いユーリンダの耳を掠めた。触れ合った小さな手と手の間に、初めはごく弱い、だが、徐々に強くなってくる光が生まれた。黄金色の光……まだ次期聖炎の神子としての手ほどきなど受けていないユーリンダが、初めて灯したルルアの聖炎だった。それは、ユーリンダだけの力で生まれたものではなかった。
「叔母さま?」
 殆ど無意識にユーリンダは呟いた。アトラウスははっと身を固くした。黄金色を持たないアトラウスは、母親や従妹と違って生まれつきの聖なる魔力を持っていない。でも、感じることは出来た。いま、ここに、お母さまがいる!
『アトラ……悲しませてごめんなさい。約束を守れなくてごめんなさい』
 ユーリンダは言った。だが、それはユーリンダ自身の声でも言葉でもなかった。
「お母さま?! お母さまなの?!」
 アトラウスは叫んだ。
『アトラ……わたくしの愛するアトラ……』
 それは、間違いようもなくシルヴィアの声だった。魔力に恵まれたシルヴィアの霊魂は、ルルアの許しを得て、束の間戻ってきた……扉の覗き窓から様子をみていたアルフォンスはそうと悟って息を呑んだ。
「ユーリィ……どうしたの?」
 ファルシスは怯えた顔で妹を揺すったが、憑依はまだ解けなかった。
『アトラ……わたくしは、ルルアの国からいつまでもあなたを見守っています。だから、ルルアの国がない、なんて恐ろしいことを言ってはなりません。ルルアの国は穏やかで光に満ちた世界なの……ほら』
 アトラウスの目前の黄金色の光が更に強まり、そしてアトラウスは見た。光溢れる美しい神の国を。
「お……かあさま」
 アトラウスは感動に打たれて息もつけぬ様子で、細い腕を伸ばした。だが、その手は虚しく見えている光景を突き抜けた。
「お母さま! ぼくも行く! ぼくもそこへ連れて行って!」
『だめよ、アトラ。あなたはまだ小さい。大きくなって、色々なことをして、学んで、おとなになるのよ。生きることの素晴らしさを知って。あなたの人生はいまから始まるのよ。光輝く人生が……。お母さまは、いつまでも、あなたを見守っています……』
 段々と、ユーリンダの口を借りたシルヴィアの声はか細くなってゆく。そうと察したアトラウスは、必死で母親に縋ろうと、思わずユーリンダの身体を抱き締めていた。
「行かないで! お母さま、置いて行かないで!」
『今度こそ……さいご……さようなら、わたくしのアトラ……』
 黄金色の光は徐々に弱まり、そして消えた。
「おかあさまーッ!!」
 アトラウスは泣き叫んだ。
「……どうしたの、アトラウス?」
 硬直していたユーリンダの身体がふっと元に戻る。夢から醒めたばかりのようなぼんやりした目で、ユーリンダは自分を抱き締めている従兄を見た。
「きれいだったね……」
ユーリンダもまた、アトラウスと同じものを見ていたのだ。
「泣いてるの? どうして泣いてるの、アトラウス……?」
「お母さまが、ぼくをまた置いて行ったから……」
「叔母さまは、いつもあそこからアトラウスを見守っていてくれるのよ。ねえ、だからアトラウス、わたしたちといっしょにお外へ行きましょう? きれいなお花が、おひさまの光が、そしてルルアの愛が、アトラウスを元気にしてくれる。叔母さまは、元気なアトラウスが見たいのよ」
 普段よりややおとなびた口調。まだ、シルヴィアの想いの残渣が残っているのかも知れない。
「きみは、あたたかいね、ユーリンダ」
 泣きじゃくりながらアトラウスは言った。
「ぼく、お母さま以外に、こんなあたたかさは知らなかった。ねえ、ぼくがお外に出ていつか元気になれたら、お母さまは喜んでくれる? いつかぼくがおじいさんになって死んでルルアの国に行ったら、お母さまは笑って抱き締めてくれるかな?」
「もちろんよ、アトラウス! さあ、行きましょう!」
 ユーリンダに手を引かれるままに、アトラウスは寝台から下りた。年下のように素直に、彼はユーリンダについていく。ファルシスは不思議そうな顔で二人を見て、あとに続いた。あの光景は二人にしか見えなかったし、ユーリンダの変化の理由もさっぱり解らなかったからだ。
 アルフォンスは扉のところで子どもたちが歩いていくのを見送った。アトラウスが外へ出る気になったのは良かったが、死者に憑依された愛娘は大丈夫だろうか……そんな複雑な思いがよぎったが、魔道に長けていないかれには何とも判断し難い。子どもたちの邪魔をしないように、そっと後を追った。

 外の陽射しは明るかった。アトラウスは眩しそうに目を瞬かせた。ユーリンダは彼の方を振り向き光に包まれて笑い、本当にルルアの娘のように見えた。
「光が、いっぱいだね……」
 彼は呟いた。

(第一部・幼年篇・完)