オルガは、温かく優しい料理を作ってアトラウスのもとへ運んだ。だが、幼子は空腹な筈なのに、一切手をつけなかった。
 アルフォンスとカレリンダは、甥の枕元へ行って、優しく穏やかに語りかけた。お母さまはルルアの国へ旅立ったこと、そこは暖かくて光溢れる素晴らしい国であること。お母さまが行ってしまったのは、決してアトラウスのせいでも誰のせいでもなく、ルルアがお呼びになったからであり、そこからお母さまはいつもアトラウスを見守っている、ということ。
 最初は伯父と伯母に背を向け、ものも言わずに布団を被っていたアトラウスは、最後の言葉に反応した。
「じゃあ、ルルアがお母さまをころしたの?」
跳ね起きたアトラウスは、ぎらぎらした目で伯父と伯母を睨み付けている。
「……それは違う、ルルアは誰も殺したりなさらない」
 一瞬の沈黙ののちに、アルフォンスは答えた。カレリンダは驚いた目で幼子を見ている。いくら幼いと言っても、このようにルルアを冒涜する言葉を吐くとは思いもしなかったからだ。
「ルルアは、すべてのひとを公平に、愛をもって見守って下さっているのですよ。あなただって、聖典くらい読んだことはあるでしょう? この部屋にはこんなに本があるのだから」
「もちろん読んだよ。そして信じてた、ぼくが『罪の子』だから、ぼくを罰するためにルルアはぼくを閉じ込めて、お父さまにぼくを叩かせているんだって。それがルルアの愛だから、我慢していればいつか罪が消えてお外へ出られるんだ、ってお母さまが言ってた。でも、お母さまをあんな風にしたのがルルアなら、ぼくはルルアなんかもう信じない!」
「おお、アトラウス、そんな恐ろしい事を言っては駄目よ。あなたもお母さまも皆、ルルアの子なのですよ!」
 聖炎の神子としてカレリンダは、アトラウスの言葉を受け入れる事が出来ない。儀式の時、祈りの時、彼女はいつもルルアの息吹を感じる。神子としての彼女は、そうした瞬間に、余人には知ることの出来ない歓喜に満ちるのだ。ルルアを否定されるのは、自らの存在を否定される事と同義。カレリンダは甥の闇色のひとみをじっと見つめた。怒りと苦しみに荒れたその幼い目は、カレリンダの心をかつて経験した事もない程にかき乱す。不吉……そんな感覚が襲ったが、それが果たして神子としての予知なのか、ただの思い込みなのか、それすらも判別できない。こんな事は本当に、彼女にとって初めてのことだった。
 だが、アルフォンスは妻よりずっと冷静に甥の言葉を受け止めた。無惨に死んだ母の姿がまだ瞼に焼き付いているというのに、その母が、ルルアの国で穏やかにしている、などという詭弁をすぐに認めて落ち着ける筈がない。
「アトラウス、お母さまはルルアにとても愛されているんだよ。ああいう魔道は、誰にでも使えるものじゃないんだ。特別にルルアに愛されている者だけが使えるんだ。お母さまはあの魔道を使う事が必要だとお考えになり、そしてルルアがそれを認められた。普通の者が同じ事をすれば、ただ苦しみ、そして命を粗末にした罰が下っていただろう。でも、お母さまは違う。ルルアのお膝元で、今は安らかに過ごしておられる筈だよ」
「どうして伯父さまにそんな事がわかるの?!」
「あの黄金色の光を見ただろう? あれは、ルルアの光、お母さまが苦しまずにルルアの元へ旅立たれたしるしなんだ」
「……どうしてお母さまはぼくを置いて行っちゃったの? 大神官さまは、ぼくの為だって言ってた……」
「お母さまは、きみが『罪の子』なんかじゃない、って、みんなに教えたかったんだよ。胸を張って、ルーン家の子として過ごせるように……」
「ぼくはルーン家の子だってみんなが知らなくてもよかったんだ」
 アトラウスは急に泣き出した。
「お母さまさえいれば、何もいらなかったのに。お母さま、どうして行っちゃったの?! お母さまに会いたい!」
「アトラウス……」
 アルフォンスは甥に触れようとしたが、アトラウスはその手を激しく振り払った。その時、アトラウスの手が何かに引っかかった。それは昨日、ユーリンダが首にかけてくれたルーン家の紋章入りのペンダント……アトラウスはそれを引きちぎり、思い切り放り投げた。
「いらない! いらない! こんなの! ぼくはただのアトラでいい! ルーン家なんかいやだ! お母さま! お母さまを返して! あとから来るって言ったのに! お母さま~~っっ!!」
 アトラウスは気が違ったかのように寝台の上で暴れて泣いた。これ以上声のかけようもなく、オルガにあとを任せ、夫妻は部屋を出た。

「かわいそうに……アトラウス。ああ、シルヴィア、あんな幼い子を遺して逝ってしまうなんて、早まったことを。あの子には何よりも母親が必要だと言ったのに、そんな判断もつかない程に追いつめられて苦しんで。わたしは結局、何の力にもなれなかった。余計な事をしてしまっただけだった……」
 アルフォンスはあまりの甥の不憫さと己の不甲斐なさに思わず目を赤くし、目頭をぎゅっと押さえた。それから、妻も同じ思いでいるものと思い、カレリンダの肩を引き寄せようとした。だが、彼女の表情に違和感を覚えて思わず手が止まる。彼女は泣いてはいなかった。
「あの子、手に負えないわ……まともに教育を受けていないのですもの。ルルアを冒涜するなんて……」
 カレリンダは常になく冷静さを欠き、そわそわした様子で眉を顰めながら夫に言った。幸せに育てられた我が子たちや、きちんと躾けられた貴族の遊び友達といった子どもばかり見てきたので、あんな小さな子どもから睨み付けられるなど思いもしなかったこと。慈愛に満ちた性格ではあるが、今は甥に対する同情より、困惑が勝ってきた。不吉、の二文字が浮かんできて消えない。どうしてルーン家の子なのに、黄金色を持たずに生まれてきたのか。その事が急に頭に引っかかってきて、どうしようもなく胸を騒がせる。ルーン家の子なら必ず受ける筈のルルアの祝福の印を。
「あの子はたったひとつの希望を無惨に失った小さな子どもなんだよ。ちゃんとルルアの教えを理解していないのだって、あの子の責任ではない。今からきちんと導けば、まだ間に合う。それより今はとにかく、あの子の傷を癒やしてやることだ」
 妻の見放すような言葉に驚きながらも、アルフォンスはなだめ諭すように言った。
「わたくし、自信がないわ……あの子はわたくしたちを憎んでいるようだわ。確かに、シルヴィアの死の責任の一端は、わたくしたち、そしてルーン家そのものなんですから、そう素直にわたくしたちの言葉を受け容れるはずもない、と思えてきたわ……」
「でも、ルーン家の子として立派に育てることが、シルヴィアの願いで……」
「育てる、って誰が? カルシスにまともな教育が出来ると思いまして? わたくしに押しつけるおつもりなの? ファルやユーリィと一緒に? あの子と一緒にいたら、子どもたちに悪影響が出るかも知れないわ」
「カリィ! そんな言い方はないだろう!」
 アルフォンスの貌が険しくなる。夫婦喧嘩など無縁で睦まじく理解し合ったふたりが、言い争うなど本当に珍しいことだった。
 カレリンダは感情的になり過ぎている自分に、心のどこかで驚いてもいた。夫の言う事の方が正しいと解っているのに、何故か受け入れられない。昨夜はアトラウスの事があんなに愛おしく感じられ、自分が護ってやろうと思っていたのに。でも、あの時はシルヴィアがこんな事をしでかすとは想像もしていなかった。アトラウスがルルアを冒涜するような子であるとも思っていなかった。
「カリィ、今日のきみはどうかしている。シルヴィアの死を目の当たりにしてショックを受けたからか? まあそれは無理もない。でも、あの子はその何倍もの苦しみを受けたんだ」
「あの子あの子、って、あなたはわたくしや子どもたちより、あの子の方が大事ですの?!」
 ああ違う、こんな事を言いたい訳でもないし、思ってもいないのに。
「誰もそんな事は言ってないだろう! どうしたんだいったい!」
「わからないわ! わからないけど……いまは、いやなの。そうね、どうかしているのよ、わたくし。どうぞお見捨て下さいな」
 そう言い捨てると、カレリンダは身を翻して駆けて行った。残されたアルフォンスは半ばぽかんとして、妻の後を追うのも忘れて立ち尽くした。
 シルヴィアは元々、カレリンダとは恋敵だった。その事が今でも、カレリンダの中になにか恨みとして残っているのだろうか? しかし、恋の勝者はカレリンダであり、シルヴィアが悲惨な死を遂げたいま、そんな昔の事であんなに冷たい事が言えるものだろうか? カレリンダはそんな狭量な女性ではない。実際、昨夜はとても可愛がっていたのに。
 あんな幼い子どもが発したルルアへの冒涜が、聖炎の神子としてどうしても受け入れられなかったのか? それ以外に、アルフォンスは理解のしようがなかった。聖炎の神子としての感覚だけは、いくら強い絆をもつ二人でも共有できないものだ。
 アルフォンスは溜息をついた。いずれカレリンダは落ち着くだろうが、同じ年頃の子どもを持つ母親として、きっとアトラウスの心をほぐしてくれるだろうと期待していたのに、無理な様子だ。背後の扉の向こうでは、まだアトラウスの泣き叫ぶ声と、ものを投げて壊すような音が続いている。ルーン公として、これまで抱えた事のない種類の難問に、アルフォンスは頭を抱えるばかりだった。