涙の発作が治まり、シルヴィアが表面上冷静さを取り戻すまで、幾分か時間を要した。カルシスは苛々と、アルフォンスは静かに、彼女が落ち着くのを待った。
「申し訳ございません……取り乱してしまいまして」
 ようやく彼女は言った。
「いいんだ、シルヴィア、無理もない。病ではないという事だが、随分身体も辛そうじゃないか。ちゃんと医師に診てもらっているのか?」
 穏やかに労りながらアルフォンスは、窶れ果てた弟の妻の手をとって椅子にかけさせた。
「わたくしの身体など、どうなってもようございます。それよりもアルフォンスさま、アトラウスにお会いになったとか?」
「ああ、とても賢そうな子だ。貴女に似ているがカルシスに似たところもあるようだ」
「そんな訳ないだろうが!」
 カルシスが怒鳴る。
「あれはおれのがきじゃない! おれに似る筈があるか!」
「いいえ、あの子は間違いなく貴男の子どもです!」
 シルヴィアは精一杯の大きな声で夫に言い返した。それからアルフォンスに向き直り、縋るような必死の表情を浮かべて言った。
「アルフォンスさま、どうか信じて下さいませ。わたくしは絶対に不貞など致しておりません。あの子は、あの子は間違いなく、カルシス・ルーンの長男なのです。どんなルルアのご意志が働いて、あの子があのように生まれてしまったのかは、わたくしにも解りません。けれども、絶対にわたくしはカルシスさまの妻として何の罪も犯していませんし、ましてや、あの子にはなんの罪もないのです。幼い身で、あんなところに閉じ込められるような理由は、なにもないのです!」
「おまえら親子は罪人だ! おれを裏切りやがって、養ってもらってるだけでも有り難いと思え!」
「黙らないか、カルシス! シルヴィアはわたしに話をしているんだ」
 アルフォンスは弟の罵声に苛立ちを隠せなかったが、それでもシルヴィアを安心させようと口早に応えた。
「シルヴィア、わたしは勿論貴女を信じる。貴女の人柄だけでも充分信ずるに値するが、それだけではない。妊娠中の貴女は本当に幸せそうだった。もしもやましい覚えがあるなら、あのようにしてはいられなかった筈だ。……カルシス、そうは思わないのか」
「う……うるさい! おれを騙して、丸め込む自信でもあったんだろうさ」
 カルシスは怒鳴り返したが、さっき程の勢いはなかった。
「とにかくシルヴィア、ここに貴女たち親子を残していく訳にはいかない。貴女たちの身柄はわたしの館で保護しよう。そしてカルシスの頭がもう少し冷えたら、貴女のご両親も交えて話し合いの場を持とう」
「なんだと、勝手な事は許さないぞ。いくらあんたが領主だろうが兄だろうが、おれの妻とがきを連れて行くなんて、絶対に認めないからな!」
 アルフォンスの言葉にいきり立ったカルシスは、兄に殴りかからんばかりの勢いで詰め寄った。だがアルフォンスも険しい顔で弟を睨み付ける。
「どうしてもシルヴィアが、おのれの妻が信じられないのなら、離縁すればよかったのだ。それを、監禁しておまけに幼い子どもにまで暴力を振るうなど、なんと心ない、情けない所業を働くのか。わたしはおまえにくれぐれもシルヴィアを幸せにしてくれと頼み、おまえはそうすると言ったではないか。どうして、わたしなり誰になりと相談しなかったのか!」
「相談だと? 相談なんかしてなんになる。おれが世間の笑いものになるだけじゃないか。ばかな寝取られ男だと。シルヴィアは最初からおれが気に入らなかったのさ。従順そうな面でおれを喜ばせておいて、陰で鬱憤晴らしに間男を引き入れていたんだ。こんな事になったのも、もとはといえば、あんたがこいつを捨てたりしたからだ! 偉そうにおれに説教する資格はないんだぜ!」
「やめて下さい、違います! わたくしは、わたくしはカルシスさまを愛しております! あの頃から……今だって。わたくしの夫はカルシスさまだけです。アルフォンスさまには何の責任もありません!」
「嘘をつくな! こんな、こんなおれを愛しているだと! そんな甘言に騙されると、そこまでおれを見くびっているのか!」
 カルシスは妻に手を振り上げたが、その腕はすぐにアルフォンスが捉えた。
「いい加減にしろ!!」
「うるさい! 放せよ!」
「アルフォンスさま!」
 シルヴィアが叫びをあげた。その顔は蒼白で小刻みに身体は震えていたが、瞳には何らかの決意を感じさせる光がともっていた。
「アトラウスを……どうかお連れ下さい。わたくしは、ここに残ります」
「なんだって、シルヴィア!」
「何だと?!」
 驚きに思わず緩んだアルフォンスの手を忌々しげにカルシスは振り払い、睨み殺さんばかりの勢いで妻を見つめた。しかし、その視線をシルヴィアはまっすぐに受け止める。
「わたくしはカルシス・ルーンの妻。ここがわたくしの家でございます。離れる訳には、参りません。でも、アトラウスは、このままではいけません。ルーン家の子として相応しい扱いと教育を受けさせなければなりません。ここでは……無理なのです。どうか、アルフォンスさま、あの子に情けをかけて頂けませんか。あの子は確かに、貴男さまの血の繋がった甥なのです!」
「それはむろん、解っているし、そうするつもりだ。だが、貴女はなぜ、一緒に来ないのか。あの子は傷ついた目をしていた。あの子には母親が何よりも必要だよ」
「それは……解っております。でも、それでも、わたくしはここを離れる訳にはいかないのです。わたくしは、決心がつきました。あの子の将来の為に、わたくしはすべき事があるのです。もっと早くにそうすべきだったのかも知れない……でも、それで本当にあの子が自由になれるのか、不安があったのです。今はもう、迷いはありません。アルフォンスさまがあの子の事を知って下さったのですから」
 謎かけのようなシルヴィアの言葉にアルフォンスは理由の分からない不安を感じて眉を顰める。だが蒼ざめたシルヴィアの表情に揺らぎはなかった。
「何を言ってるんだ、シルヴィア? すべき事とは何なのだ? 貴女に必要なのは自由と休息だ」
「わたくしが望むのは、あの子の幸福です。それから……あの子が嫡男としてカルシスさまに愛されること」
「ふ、無理な相談だ」
 カルシスは妻の必死の望みをも、ばかにしたように鼻を鳴らして一蹴する。アルフォンスはそんな弟を怒りを込めた眼で睨みつつ、かろうじて冷静さを保ちながら言った。
「カルシス! あの子がおまえの子でないと言うなら、わたしがあの子を連れて行く事に文句はないだろう?」
「いいや、父親が誰であろうと、あれはおれの妻が産んだがきだ。おれの所有物だ」
「カルシス!」
 遂に怒りを抑えきれなくなったアルフォンスは、弟を殴り飛ばす。カルシスは避ける事が出来ず、壁にぶつかって無様に倒れた。
「シルヴィアもアトラウスも、物じゃない! 何年も閉じ込めておく権利などおまえにはない! おまえはただ恐れているだけだ、おまえの家族がおまえに関心を示さなくなり、去っていく事を!」
「なんだと、知った風な口をきくな!」
 カルシスは口元に滲んだ血を拭い、そのまま兄に飛びかかった。口喧嘩は絶えなかったが、取っ組み合いの兄弟喧嘩は実はこれが初めてだった。
「あんたに何がわかるんだ! 何もかも恵まれたあんたに! 誰からも尊敬され、愛されるあんたには、誰からも見捨てられたおれをこの世で唯一、愛してくれたと思った女の裏切りに絶望した気持ちなんかわかる訳がない! そうさ、おれは何の抵抗も出来ないがきを鞭打つような卑劣漢さ。はは、あんたにも弱点があるってこった。くずの弟がいるっていう弱点がな!」
 兄の胸ぐらをつかんでカルシスは叫んでいた。自尊心だけは高いカルシスが、おのれの心の奥底を見せるような言葉を吐くのもまた、初めてだった。アルフォンスはしかし、弟に同情できなかった。襟を締め上げる腕を掴み、そのまま壁に押しつける。
「それがおまえの言い訳なのか! 努力を怠り、世を疎んじていたおまえを愛してくれたシルヴィアを、一方的に裏切りと決めつけて虐待するなど、それこそ、見捨てられても仕方のない行為ではないか!」
「裏切り以外にどう考えろというんだ?! 大神官も、こんな前例はないと言っていたんだぞ! あんたは、捨てた女に対する引け目で、贔屓目にみているに過ぎない!」
「もうやめて! やめて下さい!」
 泣きながらシルヴィアが割って入った。
「わたくしが証明しますから……決してあなたを裏切ってなどいないと。だからアルフォンスさま、どうかあの子を連れて行って下さい」
「シルヴィア、何を考えているんだ? とにかく、一旦わたしの館へ来て、ゆっくり考えなさい」
「いいえ、それでは何の解決にもならないのです」
 シルヴィアは首を横に振り続けて頑なにアルフォンスの申し出を拒んだ。