心配してこちらから使いを出しても、使いの者はカルシスに会う事すら出来なかった。アルフォンスはすぐに単身でカルシスの館へ向かった。出産は吉凶隣り合わせ……シルヴィアの身に何か起きたに違いない。
「どなた様も通すなとご主人様に命を受けております」
 門番は鬱蒼な顔つきで言った。
「わたしはルーン公、この館の主人の兄なのだぞ」
 勿論門番とて弁えている筈だが、急ぐ気持ちを抑えられないアルフォンスは常になく苛立ちを隠さない。公爵の怒気に、門番は一層陰りを帯びた表情になる。
「はあ、それでも……誰か中に入れたりしたら殺すと言われておりますんで……わたくしめもまだ死にとうございませんので……どうかお引き取り願えませんでしょうか?」
「……」
 初老の門番の哀願に、アルフォンスは馬上でぎゅっと眉根を寄せた。
「中はどうなっているのだ? 伯爵妃はどうした? なぜ誰も入れないのか、そなた訳を知っていよう?」
「いいえ……いいえ……わたくしめはなにも存じません」
 門番は怯えた貌で首を振るばかり。アルフォンスは嘆息して門越しに館の方を見やった。明るく晴れた日であるのに、なぜかそこには暗雲が立ち込めているように感じられた。

 その時、がさりと音がして少し離れた茂みが揺れた。庭園の垣根を割って出てきたのはカルシスだった。
「カルシス!」
 驚きながらアルフォンスは馬から下りる。弟の両手は掻き傷だらけで血が滲んでいた。
「どうした、その手は?」
「……」
 どす黒い顔色で俯きがちにカルシスは立っていた。その息は昼前であるのに酒臭い。黄金色の目は、ただ絶望と恨みと拒絶を浮かべていた。彼はシルヴィアが丹精込めて育てた薔薇を怒りにまかせて素手で薙ぎ払っていたところだったのだ。
「シルヴィアはどうした? 子どもは……だめだったのか? 教えてくれ、カルシス!」
「あんたに関係ない。帰ってくれ」
 呟くようにカルシスは言葉を吐き出した。
「関係なくはない、わたしにとって義妹だ。弟のおまえと同じように彼女の身を案じている」
 ハッ、とカルシスは顔を歪めて笑い、唾を吐き捨てた。
「偽善者ぶりもそこまで来るとお笑いだぜ。おれの事など、邪魔者としか思ってない癖に」
「そんな事はない、特に最近のおまえは……」
「ああもうどうでもいいから帰ってくれ。昔の女がそんなに気になるのかよ?」
「だからそういう気持ちではなく……カレリンダも大層案じている。シルヴィアの具合はそんなに悪いのか? まさか……」
 彼女はもう、いないのでは……母子共々、助からなかった、それくらいしか思いつかない程のカルシスの荒れようである。
「奴は死んではいない」
 面倒くさそうにカルシスは答えた。うるさい兄を追い払う口実を考える為、酒に酔った頭を振った。
「死んではいないが、具合は悪いね。難産で出血がひどかったのさ。当分、床から離れられないし、誰にも会えない」
「そうなのか、可哀想に……それで、子どもも……だめだったのか?」
「ああ、だめさ。生きて生まれはしたが、あれはだめだ。まともに育つ筈がない。見るにたえない姿だ」
「……!」
 アルフォンスは弟の言葉に顔を歪めて門の鉄柱を握りしめた。あまりの悲劇……カルシスはあんなに我が子の誕生を待ち望んでいたのに、ルルアはなんと無慈悲な事をなさるのか。
 妻を愛おしんでいたカルシスの言葉を疑う事はなかった。待ち望んだ愛妻の出産の結末がそんな風であれば、誰にも会いたくない気持ちは解る。だが、妻の具合が悪いのに、朝から酒に酔っているのは如何なものか。
「シルヴィアに付いてあげていなくていいのか」
「……おれに出来ることは何もない。奴は泣いて部屋に籠もっている。とにかく、もう構わないでくれ。ちゃんと医師もつけているから、これ以上悪い事はないから忘れてくれ」
 早く兄を追い払いたくて、カルシスは早口に言った。
「何かわたしに出来ることがあれば、何なりと言ってくれ。国一番の医師を探して呼んでもいい」
「いらん、いらん! 奴もそんな事は望まない。ちゃんとした医師をつけてあるし、繊細な問題だから、他の人間を関わらせたくないんだ。わかるだろ?」
「そうか……だが、何か必要があれば、何でも言ってくれ。とにかく、シルヴィアをよく労って……回復すれば、また次に健やかな子を授かるだろうから、彼女さえ無事なら、そう気を落とすな」
「は、もうそれは望めないね」
「何? 医師がそう言ったのか?」
「ああ、いや……それは俺の考えだ。そうだな、そういう事もあるかも知れん。医師はそんな事は言ってないし、それから、大神官にも相談してみようと思う。だから心配しないでくれ。シルヴィアは死にはしない」
「……そうか、わかった」
 遂にアルフォンスは弟に言いくるめられてしまった。この時は、この後五年もシルヴィアに会えないなどとは思いもしなかったのだ。夫婦仲は良いのだし、どうやら重い疾患を持って生まれたらしい子どもは可哀想だが、夫妻はまだ若いのだから、また次には健康な嗣子が授かるだろうと思った。くれぐれもシルヴィアを労るようにと再度言い残し、アルフォンスはカルシスの館を後にした。シルヴィアの命に心配がない以上、あとは夫婦間の問題であるからと、遠慮する気持ちが先立ってしまったのだ。

 シルヴィアは自室の窓から、遠い門扉を挟んでやりとりし合う夫と元の許婚を見つめていた。小さな人影として見えるだけで顔の判別などつかないが、それが誰でどのようなやり取りがされているのか、大体の察しはついた。出産が重かったのは本当の事である。二日経ってようやくシルヴィアは起きて歩ける程度に回復した。本当は、裸足のままでも駆け出して行ってアルフォンスに訴えたい。我が子は元気な産声をあげて生まれ、すやすや眠っていますと。けれど、それはまだ無理だった。

 夫は、こんながきは一生外へ出せない、と喚いたのだ。あのときを、シルヴィアは生涯苦しみと共に忘れる事が出来なくなった。本来なら、ただ幸福に彩られた思い出となった筈の出産の夜を。一昼夜苦しんでようやく元気な産声を聞いた時の溢れ出した歓喜。ただ声だけでも張り裂けそうに愛おしいと、そればかりを感じて幸せの絶頂だった。だが、汗と涙に滲む目を見開くと、産婆も手伝いの女も強張った顔をしていた。
「どうしたの……早くあかちゃんの顔を見せて」
 赤児の泣き声にかき消されてしまいそうに弱々しい、シルヴィアの願う声に、産婆は身体を震わせて答えた。
「伯爵妃さま……なんということを……」
「どうしたの。あかちゃんになにかあったの!」
 シルヴィアは起き上がろうともがいたが、体力を消耗し尽くした身体は自由にならない。その時、扉の向こうで、
「生まれたのか!」
 と喜びに満ちた夫の声がした。部屋中に元気な泣き声が響いている。
「男の子なの、きっと、そうね?」
「ええ、伯爵妃さま、元気な若君でございますよ。ただ……」
「おいどうした、シルヴィアは大丈夫か? 早く入れてくれ!」
 その言葉に、手伝いの女はびくりとして、シルヴィアの方も赤児の方も見ずに、血のついたシーツや盥などを片付け始める。産婆は赤児を産湯につからせているが、カルシスの声に怯えた様子で、
「おお……どう致しましょう、伯爵妃さま。若君を伯爵さまにお見せしなければなりません」
 と震える声で言う。
「当たり前じゃないの。早くあのひとに見せてあげて……でもまず、わたくしに抱かせて……ねえ早く。早くあかちゃんを連れてきて」
 産婆たちの様子から感じる不安をどうにか打ち消しながらシルヴィアは横たわったまま言った。
「……はい」
 産婆は固い声で応えると、用意されていた上等の絹の産着で赤ん坊をくるんだ。手伝いの女は、穢れたものを片付ける為に扉を薄く開けて滑り出ようとした。だがその時、上機嫌のカルシスが、女を突き飛ばさんばかりの勢いで入れ替わりに産室に入ってきた。
「元気そうな声だな! 男なんだな、え? でかしたぞ、シルヴィア!」
 嬉しそうな夫の声にシルヴィアの貌は綻ぶ。……だが、幸福な時間はそこで終わった。シルヴィアにとって、掛け値なしに幸せな夫との時間は、そこで止まってしまったのだ。
 産婆に抱かれた赤児の顔を覗き込んだカルシスの顔をシルヴィアは見ていた。笑顔から驚きに、混乱に、失望に、怒りにと、夫の表情は目まぐるしく変わった。どうしたのだろう……産着に包まれた赤児の姿はまだシルヴィアには見えない。
「これは、なんだ」
 夫は押し殺したような声を出した。その視線はあえてまだシルヴィアには向けられず、怯えた顔で赤児を抱いている産婆に八つ当たり気味に向けられている。
「……とてもお元気な、若君でございます」
 青ざめていたが産婆は何とか答えた。
「どうしたのですか、あなた……」
 不安に耐えきれなくなってシルヴィアはか細い声を上げる。そこで、初めてカルシスは血走った眼を妻に向けた。シルヴィアが初めて見る夫の表情だった。
「シルヴィア。おまえ……」
 やっとのことで言葉を絞り出すと、カルシスは産婆の腕から乱暴に生まれたばかりの赤児を奪った。甲高い赤児の泣き声が一層大きくなる。
「乱暴はおやめくださいませ。そっとお抱きなさいませんと……!」
 思わず身についた習慣から産婆は声を上げたが、カルシスはそんな産婆をうるさそうに振り払う。
「何をなさいますの、あなた? あかちゃんを優しく抱いてあげてください。わたくしとあなたのあかちゃんを」
「うるさいっ!!」
 カルシスの怒気が爆発した。あろう事か、カルシスは出産を終えたばかりの妻に詰め寄り、力一杯その頬を打った。
「あうっっ!!」
 シルヴィアは寝台の上から逃れる事も出来ずに悲鳴を上げた。訳がわからなかった。だがカルシスの怒りの発作は治まらず、赤児を寝台の裾に置くと、弱り切った妻の身体にのしかかり、その顔を何度も殴りつけた。唇が切れ、みるみる顔が腫れ上がる。部屋の中にはただただ、殴打する音と赤児の泣き声だけが響き渡っていた。
「ど、どうして……」
 泣きながらシルヴィアはかろうじてそれだけを言えた。
「どうしてだと?! これがおれとおまえのがきだと?! よくもおれを欺いたな! ルルアはおまえの不貞をしかと見せてくれているぞ!」
 カルシスは喚くと、首も据わっていない赤児を掴み、妻に突きつけた。
「そ、そんな……!!」
 シルヴィアは絶望に満ちた眼で、それでも愛おしさを感じながら、先程まで胎内にいた我が子を見つめた。仔猫のように身をくねらせながら泣いている嬰児は健康そうで、新生児に共通したくしゃくしゃの顔も母親には整って見えた。ただ……彼らの常識からはあり得ない事に、黄金色の髪と瞳の両親から生まれた筈の赤児は、黒い髪と瞳を持っていたのだ。

 去って行くアルフォンスの姿を見つめながら、シルヴィアは涙を流した。カルシスは赤児を自分の子と認めようとは決してしなかった。恥だから括り殺す、とまで言ったのを、シルヴィアは夫の足に縋り、殺すならわたくしも一緒に、この子は間違いなくわたくしとあなたの子どもです、と叫び続けた。それで何とかカルシスは赤児を殺す事を思い止まり、それでも、不貞のがきは一生外に出すな、と言い捨てて出て行ったのだ。
 この時はまだ、シルヴィアも、これから五年もそんな事が続くとまでは思っていなかった。きっと夫は解ってくれる。アルフォンスや、彼女の師である大神官もきっと助けてくれる。そんな希望に縋っていた。だが夫の頑なさは、シルヴィアにとって頼りの二人を全く寄せ付ける事もなく……アルフォンスが母子を心配して頻繁に訪れても頑として門前払いを繰り返し……やがて愛しい我が子とも引き離され、月日は無慈悲に過ぎていった。
 そして今、五年ぶりにシルヴィアとアルフォンスは相対していた。