「な、夏休みの、空いてる時……よ、よかったら、うちにフ、フルール見に来ない?」

 終業式間近の暑い夕暮れ。

 花は、倉内にそう誘いを受けた。

 先日、一緒に猫の映画を見に行って、暗い館内から出てみれば、二人とも涙目という状態で。思わず、そんなお互いの赤い目を見て、照れ笑いをしたのは良い思い出。

 ともあれ、倉内の中ではいまだに猫フィーバー中らしく、今度はおうちの可愛いお姫様を、花に紹介したくてしょうがないようだ。

「そうですね。朝早くと夕方は、犬猫の世話があるんで、昼間なら大丈夫だと思います」

 犬の運動や餌やりは、学校に通いながらでも出来る、彼女の大事な仕事。花は、ちゃんと責任を持ってやりたいと思っているので、必然的に彼女の自由時間は、動物に合わせたものとなる。

「じゃあ……あ、後でメールで日にち決めよう。ありがとう、花さん」

 倉内は、嬉しそうに目を細めた。

 猫との生活で、こんなに幸せに前向きになっていく人を見ると、花も嬉しい。人と人との間でしか生まれないものもあるが、人と動物の間でしか生まれないものもあるのだ。

 彼も、たまに友達の話もするようになり、ネットで猫のブログなんかも始めたということで、アドレスも教えてもらった。

 フルールの写真いっぱいの、倉内らしい──愛に溢れた文章が並んでいるブログ。

 花は、文章を直視出来なかった。

 本人は、いたって素直に書いているのだろうが、言葉のセンスや猫への愛の向け方が、相変わらず日本人離れしているのだ。

『可愛い僕のフルールは、いつも寂しげに甘えてくる。けれど、僕はいつも彼女を甘やかし過ぎてしまうから、彼女は僕がいないと余計に寂しい気持ちになるんじゃないだろうかと心配になる。でも、僕は甘やかすのを止めることが出来ずに、いつもバスルームで後悔している』

 花は、この文章を読んだ時、どこから突っ込んでいいか、本当に分からなかった。言葉と言葉の間に、フルールへの愛が溢れ出し過ぎていて、もはや手遅れという状態なのだ。

 相手が猫だからマシだが、人の恋愛のノロケ話を聞かされている気分である。

 幸いにして、ペットのブログは大量にネット上に氾濫しているために、彼のブログは埋もれてしまっている。おかげで、うっかり見て「うわぁ」な気持ちになってしまう人は少ないようだ。

 花は、別に引いている訳ではない。それが、倉内楓という人だと分かってはいるのだが、生まれも育ちも日本人の花の感覚からすると、むずがゆさとこっぱずかしさが手に手を取って、家の中に駆け込んで扉を閉めてしまうのである。

 こればかりは、体質と思ってあきらめて欲しいところだ。

『ありがとう、花さん』には、慣れてきたのがすごいと、彼女は自分でも思った。人間って、環境に適応出来る能力、高いなあと。

「あ、倉内先輩、終業式の翌日でもいいですよ。今のところ、特に予定はないですし」

「う、うん。じゃあ、その日で……あっ」

 あっさりと日付が決まりそうになったその時。

 妙な声を、倉内があげた。その日は、都合が悪いのだろうかと、花が考えかけた時。

「か、か……んー……楓(かえで)で、いいよ」

 奇妙な角度から、言葉が飛んできた。

 ん?

 意味がよく分からずに、彼女は首を傾げて倉内を見る。

「く、倉内先輩っじゃなくて……か、楓でいいよ」

 夕暮れの茜色とは違う頬の赤さとともに語られる言葉に、花はたじろいだ。

 む、無理無理無理無理無理!!

 反射的に口から何回も飛び出しそうになるその音を、ぐぐぐぐぐぐぐぐと全部飲み込むのは、どれほど大変だったか。

 彼はひとつ年上なので、そんな呼び方をすれば周囲から浮きまくってしまうではないか。

 だが、彼が一歩ずつ人との距離を縮めようと頑張っているのがよく分かるので、頭ごなしに断るのは、花の心が痛いどころの話ではなかった。

 あーうーあーうーと、悩む時に出てしまう唸り声を、心の中で繰り返す。

 倉内は、心配そうな顔で彼女を見ていた。

 あーもう!

 花は、一生懸命勇気を奮い起こした。

 こんなことに使う勇気など、たいしたことではないではないか、と。

「か、か……楓……先輩。こ、これでいいですか?」

 頑張って頑張って、名前の方を呼んだのだ。後ろの先輩というオマケがついているくらい、許されてもいいですよねというか、許して下さいという目で、彼に訴える。

 そんな懸命な花の目に、倉内はもっと赤くなって視線をそらしてしまった。

 じっと目を見るのは、いまでもまだ駄目な時が多いようだ。

 そういう彼を見ると、けれど花は少しだけほっとしてしまう。

 彼の成長速度がゆるやかである方がいいなんて、おかしな話だ。本当であれば、対人恐怖症なんてものはあっさり治ってしまった方がいいのだから。

 そうすれば、彼はきっと名実共に人気者なれるだろう。

 こんなに中身はいい人で、少しばかり日本人離れしたところはあるが、優しくされ慣れていない女生徒たちにとっては、それは長所どころの話ではないだろう。

 彼は、自分の猫をお姫様のように扱うが、彼自身が王子様になれる資質があったのだ。

 それは、何だかちょっと、花にとっては残念なことだと思った。

 顔が綺麗なのは、彼のせいではないが、彼の心が綺麗なのは、彼のせい。

 倉内楓という人の顔ではなく、ちゃんと心を見てくれる人と、仲良くなって欲しいなと、花は願ってしまうのである。

 犬や猫にもブランドがあり、最近は特に犬の雑種のウケが悪い。お金を出してでも、純血の犬を求める人が多い。

 それが悪いとは、花は決して思ってはいないが、ただ少し、それが倉内と重なるところがあるように見える。

 見た目は大事だが、中身を見てもらえないのは空しいことだろう。

 花のような普通の顔の人間であれば、周囲に集まる人は、間違いなく自分の中身を見てくれると分かっているから、何の心配もない。

 そんな変な心配をしてきたことが、彼の対人恐怖症の一つの材料になっていたのだろう。

「も、もう一回……よ、呼んでもらって、いい?」

 ほんの短い間に、花は多くのことを考えていた。そして、同じ時の間に倉内は何を考えたのか、そんなお願いをしてきた。

 ああ……うん。

 恥ずかしく思うものの、今後も呼ぶのだから、一回呼ぶも二回呼ぶも同じだと、花は大きく息を吸い込んだ。

「か、楓先輩」

 それでも、やっぱりどもってしまう。きっと、倉内のが伝染してしまったのだろう。

「へ、へへ……」

 夕焼けの中、倉内の表情が嬉しそうに崩れていく。

 赤くて、少しだらしなくて、きっと家でフルールを前にした時の彼も、こんなカンジなんだろうなと思えるほど緩みきっている。

 幸せそうで、何よりです。

 自分の羞恥を犠牲にして得た報酬が、その笑顔なのだ。

 花は、存分に満喫させてもらうことにした。


「か、楓先輩、あんまりフルールを、甘やかしすぎちゃ駄目ですよ」

 照れ隠しに、花はフルールをダシに使う。

「うっ……駄目かな、やっぱり」

「わがままお姫様になってもいいんですか?」

「それ……良くない?」

「良くないです」

 ちょっと、しゅんとした倉内もまた──少しばかり花を幸せにしたのだった。



『終』