重源は「入唐三度」と自称(3のp38)しているのだが平家時代の日本と東アジアの関係は押さえておきたい。(3のp25)中国は南宋、寧波(にんぽー)が交易の拠点になっていた。寧波の位置から琉球経由の航路を考えるべきか? 2012.0102 15:42:17

 そうか、そういうことか。大河の特番見て話が煮えた!(4のp41)絵面がおもしろくて採用したが海上交易を考えた場合、大輪田泊(おおわだのとまり)と福原京(ふくはら・きょう)は指摘しておくべきだろう。個人的には喜田プランが蓋然性を感じる地方官衙では正方位は時に無意味な時が多い。2012.0103 11:24:39

 子供の頃、京都で活躍している清盛が厳島神社の社殿を造営した意味が解らなかった。ようは瀬戸内海航路の掌握(しょうあく)の象徴なんだろう。瀬戸内の掌握は日本の対東アジアの交易の独占を意味する。大輪田泊から呉(くれ)を経由して博多(はかた)から寧波(ニンポー)へと、重源による技術伝播とも重なる。2012.0103 12:33:50

 ラスト! 日本と南宋との交易で指紋になるのは青磁・白磁だろう。尾張(おわり)の低地部でも、何でもない田畑の耕作土を1枚はぐと青磁の小片が出土したりする。尾張は瀬戸物に代表される窯業(ようぎょう・陶器生産)の地域だが舶来(はくらい)の青・白磁は珍重されたよう。清盛が掌握した航路は中世を通じて活用される。2012.0103 12:50:42