朝になりました。いつもなら鳴る目覚まし時計が、その日はすでに止められていて、僕はあやうく寝過ごしそうになりました。ユリの不注意だ。僕の神経質な怒りが膨らみ、思わず声をあげようとしました。しかし、彼女はいませんでした。布団の中にも、部屋の中にも、あのちっぽけな台所にも。こんなことは、今までなかったことです。僕のこころはざわめきました。カーテンを開けると、墓地が目に飛び込んできました。いつもの光景です。なんでもない、きっとユリは用事があって、先に出かけたのだ、後でまた僕に赦しを乞うだろう、しかしちょっと説教しなくては……。

そこまで考えたとき、机の上に彼女がいつも肌身離さず持っている聖書が置いてあることに気がつきました。その上には、一枚の紙が載っていました。紙には、一篇の詩が書いてありました。几帳面で小さく、丸みを帯びた、ユリ独特の文字でした。

朝の空は、その日生まれた者を祝う明るさをまとう
生きる喜びにあふれた赤子を、その胸に包む
夜の空は、その日この世にありしいのちを失って 天に召された者たちを厳かに導く
喪の衣をはおる
失いしいのちを嘆く者たちの涙を受け止め、自ずから哀しみの色に染まるのか
すべての祈りは空を包み、また今日も変わりゆく
誰がその色の行方を知る者があるだろうか
君はこの刹那、いずれの空を生きているのか
君が我を忘るるとも、我は砂にさらされる骨を鳴らし、君に呼びかけ、君を待とう


僕の心に、言いようのない不安がこみ上げてきました。そのとき、携帯が鳴りました。警察からでした。ユリの遺体が、この海岸で見つかった、と事務的に伝える電話でした。 

僕たちの同棲生活は、ユリの自殺によってピリオドを打たれたのでした。僕は、まだ掌にユリの小さな手を握りしめているような気持ちだったのに。


彼女の遺体と対面したとき、彼女が妊娠していたことを知らされました。僕は愕然としました。自分の子供と恋人を、いっぺんに亡くしてしまったのです。ふらふらと廊下に出ると、久しぶりにあの義父とすれ違いました。僕は、義父と立場が逆転したかのような気持ちになり、とてもまともに顔を見ることなどできませんでしたし、向こうも何も言わず通り過ぎていきました。後で、彼がユリの葬式は自分が執り行うと言っていると、警察で聞きました。僕は、学生でお金もありませんでしたから、言うとおりにするしかありませんでした。


一般会葬者の立場で、ユリの葬式に行った帰り道、この海岸を通りかかったので、僕たちが出会ったときのように、岩場に腰を下ろしました。僕は、唯一彼女の形見として譲り受けた聖書を取り出しました。そして、白い付箋紙が貼ってある箇所を読みました。

……この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされている。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。

それは、きっとユリが何度も読み返したのでしょう、ページは半分破れかかっていました。

僕は、彼女にぶつけた様々な意地悪な言葉を思い出しました。それは、数珠のように次々に脳裏に浮かぶのです。ユリは、どんな気持ちで僕の言葉を受け止めたのでしょう。僕がいらだたない限り、沈黙が支配するようになったあの部屋の隅で、小さなからだを丸めるようにして座り、熱心に聖書を読むユリの姿が、鮮やかに蘇りました。そして、今まで無意識のうちに僕の目が捉えていた在りし日の彼女の姿が、映写機がスクリーンに映し出す古い映画のように、僕の目の前をちらつきました。花のように白い肌のユリ。習ってきたフランス語を軽くつぶやきながら、殺風景だった台所に、名もない一輪の花を生けてくれたユリ。僕に夕飯の味見を頼むとき、首をすこしかしげて待っていたユリ。シャワーを浴びて浴室から出てきた僕の体を冷やそうと、うちわで懸命に扇いでくれていたユリ。飾らない日常のユリの姿をひとつ、またひとつと思い出した僕は、失った愛の大きさにようやく気づいたのです。どんな絵の具を使ってもカンバスに写し取ることができなかった、彼女の瞳の美しさが、まざまざと思い出されました。

もう、あの目に宿る光を見ることはできない。それは、僕自身が彼女と、生を受けることのなかった子供の命と共に吹き消したものなのだ。二人を死に追いやった自分の罪深さに、押し潰されそうでした。僕も、今このまま喪服をまとって、同じように海で死のう。そう思ったとき、ユリの詩が自然に僕の口から流れてきました。それは、紙片を見つけてからそれまでに、暗誦するほど読み込んだあの詩の一節でした。

君が我を忘るるとも、我は砂にさらされる骨を鳴らし、君に呼びかけ、君を待とう

骨を鳴らして、待つ。ユリは、出会ったこの海岸の砂上で、赤ちゃんを抱いて、僕を待っていてくれるのではないか。今死んではいけない。ユリの鳴る骨を見つけて、彼女に赦しを乞おう。僕はそう思い立ちました。それからずっと、ユリを偲んで絵を描き、バイトをして生活しながら、時間のあるときにはここに来て、鳴る骨を探しているのです。ユリの遺骨は、母親と一緒に墓に納められていますが、ここにもきっと一片の骨を、鳴る骨を残してくれている、と僕は信じています。僕は、ある理由で骨を探すのを急ぎ始めました。そして、今一番僕が信頼しているYさんにだけは、この話をして、少しでも意図を理解していただこうと思ったのです。

そして、この話こそ、僕が伝えたかったことのすべてです。