ただ変わったことといえば、少々の美術雑誌が突っ込まれたラックの中に、ひときわ異彩を放つ存在―聖書がぽつんと鎮座していることだった。


それは、表紙が擦りきれ、全体が黄ばんでおり、持ち運びに適した大きさでもあり、誰かがよくよく愛読していた雰囲気を薄絹のようにまとっていた。


確かに田島は、「鳴る骨」を探しているが、そこに特定の宗教めいた熱意は感じられなかったし、立ち居振舞いにもキリスト教信者らしいものはなかったので、なぜここにバイブルがあるのか、私は非常に興味をそそられた。


しかし、繊細な問題でもあるので、できるだけ何気ない風を装いながら聞いてみた。


「聖書、読むの?」


「あ、それは……」

押し入れの奥からカンバスを出そうとこちらに背を向けていた田島が、私の方へ首をねじった。その瞳に、出会ったばかりの頃に見出だした悲しみの影が差しているのを見て、私は公開した。



「無作法な質問をしてごめん。気に障ったなら謝るよ」


「いいんです。その聖書は、結果的に僕が譲り受けることになったものなんです。難しくて、僕にはよく分からないのですが、ページを繰るときもありました。罪は、どうやったら償われるものだろうかと思って」


罪。田島が発した言葉のうちで、これほど彼に不釣り合いなものはなかった。私は、彼が言う「罪」と、「鳴る骨」は関連があるのではないかと直感した。田島は続けた。


「でも、結局どうやって償えばいいか、僕には分かりませんでした。僕が地獄へ行けば、僕の罪は償えるのでしょうか。赦されるのでしょうか。僕は神にすがろうと思いました。洗礼を受けようと、教会のすぐ近くまで足を運んだこともあります。祈りました。毎日祈りました。だけど、心は苦しくなるばかりで、生きることが辛くなるだけでした。バイト先にも、相談できるような友人はいません。僕は一人なのです。祈れば祈るほど、僕は惨めに、より増す罪の意識に押し潰されそうでした……」


田島の声は、語るうちにだんだんと細くなり、最後にはよく聞き取れなかった。私は言葉がなかった。そして、「罪」を負い、「鳴る骨」を探しながら帰ってきた田島が、一人で聖書と向き合っては、己の罪悪感が浄化されるような、そんな霊的文言を探そうとさびしく格闘している、そんな光景がまざまざと眼前に浮かんだ。田島の美しさの陰に、どんな罪が隠れているのか、それは私には分からなかった。しかし、今までは考えたこともなかった「罪」という観念が、確実に私の中に根を下ろした。


(2013.12.28)