治樹(はるき)、帰るのか? なあなあ。ずりぃぞ。出し物決めに参加しろって」

 前言撤回。
 一部を除いて、俺に話し掛ける生徒はいない。

「なーあ。治樹」

「うるせえぞ優一。話し掛けるんじゃねえよ」

 積極的に話し掛けてくる生徒を振り払うように早足で歩き、俺は昇降口で靴を履きかけた。事務的に通っている高校を後にすると、駆け足で帰路を辿っていく。
 
 一分一秒でも早く家に帰りたかった。
 そこに噂の虐待する母親がいようと、俺は家に帰りたくて仕方がなかった。
 だって、そこには俺に精一杯の笑顔を向けてくれる奴が、健気に帰りを待つ奴が、唯一信じられる奴がいるのだから。

 十字路の歩道を渡り、大通りを過ぎて一等地の住宅街に入る。
 似たり寄ったりの洋風の家がずらりと並ぶ、そこの一角に、俺の住む一軒家が建っている。新築とは言わないが、それなりに綺麗な家だと思う。まさか此処で虐待が起きているなんて、外見からじゃ想像もつかないだろう。

 ただし。

 近所の人間は事に気付いている。
 その昔、俺が助けを求めたことがあって、ちょっとした騒動になったが、それすら無かったことになっている。学校の奴等と同じで、面倒事に巻き込まれたくないってわけだ。自分が可愛いんだろう。

「ただいま」

 玄関扉を開けて、まずは中の様子をうかがう。

 しんと静まり返っている空気に眉を顰めた。
 こりゃ母さんが帰って来ているな。もし留守なら、俺の声に反応して出迎えてくれるはずだから。
 嫌な予感を抱きながら音を鳴らさないようにフローリングを歩き、恐る恐るリビングに入る。

 驚愕した。
 そこには、アイロンを振りかざした母さんがいたのだから。蒸気を出しているアイロンの目掛ける先は、その場でうずくまる小さな体。大切な俺の弟の姿だった。

 通学鞄を放り出し、無我夢中で二人の間に割って入った。
 うずくまっている体に覆いかぶさり、代わりにアイロンの熱と打撃を背中で受け止める。制服が熱を遮ってくれたものの、重いアイロンの痛みは尋常じゃない。必死に声を噛み殺す。