玄関で靴を脱ぐおれよりも先に、兄さまがリビングに入っていく。
 急いで後を追うと、中から怒鳴り声が聞こえた。聞きなれたお母さんの声じゃない。大好きな兄さまの声だった。リビング手前で足を止めてしまう。

「まだ、片付けが終わってねーのかよ。俺は言ったよな。帰って来るまでに終わらせておけって。はあ、怪我? あんたがいつも、俺達に言い訳すんなって言ってたじゃねーか」

 荒々しい口調と共に、マグカップらしき物を投げつける音が聞こえてくる。

 ちょっとだけ扉を開けて中を確認すると、お母さんが兄さまに『許して』と言っていた。
 あのお母さんが、兄さまに向かって。おれ達がいつも口にする言葉を、お母さんが言っているなんて。

 しかも、ボロボロだ。

 お母さんはとっかえひっかえ彼氏さんを作っている、それなりに美人さん。
 なにより顔と肌を命にしていて、すごく化粧品にこだわっている人なんだけど……その人の頬に痣ができていた。

 涙を浮かべて、兄さまに『許して』と言った。あの怪我は兄さまが仕業なんだ。

「那智。あんた、帰っていたのか」

 扉の隙間からおれの姿を見つけたお母さんが、兄さまを押しのけて駆け寄ってくる。

「あ、てめっ!」

 兄さまの怒鳴り声を振り払い、お母さんがおれの両肩に手を置いた。
 ひっ、声が出なくなってしまう。お母さんが目の前にいるだけで、おれの体がこわばった。

「治樹がおかしくなった。お母さんの言うことを聞かなくなった。あいつは悪い子になったんだ。あんたなら分かるよな、この意味」

 分からない。お母さん、分からないよ。意味が分からないよ。

「あんたもお願いするんだ。お母さんを叩くなって、これは悪いことなんだって。弟のあんたが言えば、あいつは正気に戻る。ほら、那智」

 迫るお母さんが怖くてこわくて。体の芯が震えてしまった。

 兄さまは悪い子じゃないよ。おかしくもないよ。
 今日の兄さまは、確かにちょっと変だな、と思っていたけど、でもすごく機嫌が良かった。いつも以上に優しかった。

「あんたは、お母さんの味方だよな」

 小学生のおれにだって、この状況くらい分かる。
 お母さんはおれに、お前は私の味方になれ、と命令している。これ以上、兄さまからひどいことをされないために。

 不思議と気持ちが落ち着く。
 毎日のように怯えていた、その目をそっと見つめ返して、おれは答えた。