主さまの気まぐれ-百鬼夜行の王-【短編集】※次作鋭意考案中※

戸のすぐ傍に朧が居るのが気配で分かった。

雪男はこつんと一度戸を叩いた後、優しい声色で問いかけた。


「朧…帰って来ないか。腹に子がいることはまだ主さまに伝えてない。今後どうするか皆で考えよう」


「……」


返事はない。
ただ聞いているーーもどかしい思いに襲われた雪男は感情を押し殺してさらに問う。


「輝夜の話だと焔も戻って来るらしい。ちゃんと話し合って決めた方がいい。だから…戻ろう」


ーーどんなに言葉を重ねても無言のまま。

虚しくて辛くて…もうこれは駄目だ、とついに心が折れた。


「ははっ、お前は本当に…親娘共々俺を困らせる名人だ。恐れ入ったよ」


僅かに身じろぎをした気配がしたが、もう心が決まった雪男は朧を平屋から出すことを諦めて重ねて言い連ねた。


「俺は…幽玄町を出て行く。百鬼も抜けてお前の前から去る」


「…っ!?」


「だからもう、好きにすればいい。だけどその子だけは産んでやれ。主さまたち、最初はいい顔しないかもだけど、産まれてくればきっと可愛がってくれる」


大切で愛しくて、この娘と生涯を生きてゆこうと心に決めた女とは、もう会わない。

二度も心を捧げて愛したいと思った。

朔から離れることはとても辛いがーー銀や将来性のある白雷が自分の穴埋めをしてくれるだろう。


「じゃあな、もう会うことはないだろうけど…元気で」


自然と笑みが零れた。

一度戸を撫でて雪男がその場を去ると同時に朧が平屋を飛び出す。


「お師匠様…!どうしてあなたが居なくならなければいけないの!?」


幽玄町から。
百鬼を抜けてどこへ行くつもりなのか?


「もう会えないなんて…いや…!!」


甘かった。

雪男をあんなにまで追い詰めたのは、自分。

追い詰められて逃げ出したのに、計らずも雪男の方を追い詰めて、諦められて…もう二度と会えないなんてーー


「いや…そんなの、いや…!」


腹の子が誰の子であっても、心は雪男に縛られたまま。

あの強くて優しくてきれいな男が自分の次にだれか違う女を愛する未来なんて想像できない。


「猫ちゃん!お願い、追いかけて!」


「お嬢、幽玄町が荒れるにゃ。早く戻るにゃ!」


離れるなんて、許さない。

この身が汚れていても、心はあなたのもの。


「お願い、行かないで…!」


涙が止めどなく頬を伝う。