苦しくて乗り越えられないものは乗り越えなくていい。

逃げたっていい。

私と同じようにサクも逃げた人間なのかもしれない。それならば、わざわざ苦しい場所に戻る必要はない。

でも、サクは今も歌を捨ててないから。

鉄さんの言うとおりサクが音楽を捨てていたら、
私は絶対耳を傾けなかった。


でもね、サクは今も歌ってるの。

あの小さな公園でギター、一本だけ持って。


サクは誰かのためじゃなくて、自分のために歌ってるって言ったでしょ?

それなら思い出したくない過去と繋がってる音楽を捨てられなかったのは……咲嶋亮の中心に歌があるからだよ。

そこには毎日生まれるメロディーがあって、毎日浮かぶ歌詞がある。


サクは〝唄う人〟

ううん、違う。

〝唄わずにはいられない人〟


「……ノラちゃん、名前聞いてもいい?素性とか事情は聞かないけど、やっぱりそこは……」

大丈夫。

私も乗り越えられなかったことがあったけど、
サクがあんな笑顔で笑ってくれるなら。

私も一歩踏み出してみる。


「北原麻耶です」


――北原麻耶(きたはら まや)

それが私の本当の名前。