結局、畑山と2人きりでタクシーに乗って帰ったが、彼は自分からは何も話さず、結果池内が好きらしい、ということを確認しただけに終わった。

 それよりも、あまり信用されていないらしいことがショックだった。

 前回の誤差のこともあり、人として、イマイチだと思われているのかもしれない。

 これが、ただの知人同士ならまだしも、会社の、毎日会う、しかも部長となると、話は全く別物だ。これからの小さなミスも見逃してもらえなくなるかもしれない。

 ミスをしても、自分で解決できるものは少ない。となれば、部長に了解を得て、周囲に頼らなければならないのに。

 溜息をつきながら、デスクのパソコンを眺めた。その奥に、永井の頭が見える。

 永井は食事会の次の日の土曜、わざわざ朝に、電話をかけて体調のことを聞いてくれた。さすが誰にでも優しい永井。そういう自然なフォローが、月曜日にお礼がてらわざわざお菓子を持ってきてくれる女子社員を引き寄せるのだろう。

私、という名の女子社員を。

 ただ、手作りじゃなくても良かったかもしれない。けど、見栄を張ってわざわざ手作りのクッキーにした。

 自分でも、面倒だと分かっているのに、どうしてそれを乗り越えて作ったのか、よくは分からない。

「藤沢さんのクッキー、美味しいですわ! 僕甘いもんは好きやけど、グーグー」

 外から帰って来た菅原は、部屋に入るなり応接セットのテーブルの上に置かれた皿の上のクッキーを一口つまんで、大声で話し始めた。

「あ、ありがとうございます」

 穏やかな菅原に、自然に笑顔になれるから不思議だ。

「私、最近チーズパイが食べたいのよねえ、この前テレビで見てからずっと欲し・く・て♪」

 右隣の池内はにっこりと色気抜群で欲したため、今の私が畑山なら、確実に落ちたな、とその必要もないのにハートを射止められてしまった。

「えっ、チーズパイ、難しいですよ……」

 そんなつもりじゃないから面倒だな、と断ろうとしたが、

「僕もチーズパイ、好きですけどね」

と、前の永井が書類を持って立ち上がりながら言った。

「チーズパイゆーたら、どんなやつ?」

 菅原は、扇に回答を求めた。

「あのー、パイで甘いチーズを丸めたやつよ」

 仕事に集中していた扇は適当に返事をしたが、おそらくそのチーズパイはパンの方だろう。

「あぁ、僕はてっきり、こんなアップルパイの丸い大きいやつの中にリンゴの代わりに四角いチーズが入ったやつやと思いましたわ。けど、焼くから四角が伸びるやろうな」

 菅原は1人納得しながら、席に着く。

「今度は池内さんのために焼くんですか?」

 まだ立ったままの永井が聞いてきた。

「えっ、と……」

 ここで作らないとも言い難いなと悩んでいると、

「今日は誰のためとかあるの?」

と、池内が聞いてきた。なんか、それを聞かれると、言いづらくなるなと迷っていると、永井が2秒してから返事をした。

「僕のためですよ」

 左隣の秋元が顔を上げたのが分かった。

 ちょっとその言い方、なんか誤解招くじゃない!!

「へー、何? 誕生日?」

 良かった、池内の声は普通だ。と思ってその綺麗な顔を見たら、完全ににやけていた。

「いっ、いえっ、あの、この前家まで送ってくれたので……」

 ってあれ? 送ってくれたの、どっちかっていったら畑山部長じゃん!!

「あ、ほんとだ。うまいね、このクッキー」

 最悪のタイミングで背後から、クッキーをかじる部長登場。

「そのクッキー、永井君に置いておかないとダメですよ。永井君のための物らしいですから」

 池内は楽しそうに笑う。

「えっ、いえっ、そんなあの、ばっかりじゃないんですよ!」

「けど家まで送るって優しいよねー。さっすが、永井君!」

 私は池内を見つめた。

「あれっ……」

 本人も何かに気付いたらしい。

「あれっと、……ぶち……」

 池内は何か言おうとして、目を見開いた。明らかに身体全体が固まっている。

「あ、僕のことは、気にしなくていーから、いーから」

 部長は理解したのであろう、不気味にも笑顔でスタスタと席についた。

 見つめ合う、私と池内。

「ぶ……部長の実家って、北奥だったよね……?」

 部長が遠く離れてから、池内は小声で聞いてきたので、私は、更に声を落として答えた。

「らしいです……」


 あり得ないことは二度重なる。

 そんなことはない。

 あり得ないことが、二度重なることなどよほどでないとない。

 となれば、よほど私は浮いていたのだろうか?
 
何から?

 午後4時半になって、そのことに気付いた時、無意識に左手が口元を抑えていた。

 必死になって画面を見る。だが、見ているのは自分の頭の中の記憶だった。

 午前中、クッキーの話でみんなで盛り上がった時、畑山を若干不機嫌にさせたのは自分だということを思い出した。

 次いで、目を深く閉じる。

 右手は完全にキーボードの上で止まっていた。

 午前中、賑やかな気分でわいわい仕事ができていた。その午後初め、共用パソコンでいつもの仕入れの入力をした。

 それからずっと今の仕事をしているわけだが、今になって、ふと仕入れ入力の数字を打ち間違えたことに気付いた。

 既に情報はオンラインで流れているため、訂正することは不可能。

 私が今からできることは、誤差報告書を書くことだけ。

 本当に間違っているだろうか、パソコンの履歴で確認してからにしようと思い、共用パソコンの方を見ると、なんと畑山が使っていた。

 ぎょっとして、背を正した。

 どうしよう、5時までに確認して、報告して、報告書を出すのがベストだ。いや、報告書を出さないかぎり、仕事をしたとは言えない。

何て、報告しよう……。

 いや、入力ミスをしました、と言えば済むこと。というかそれ以外に言えない。

 疑いが、確定になり、更にミスを重ねる。

「どうかしましたか?」

 背後から永井が、少し小さな声で尋ねた。

「あっ……いや……」

 気づくと、左手を口元にあてたままだった。完全に何かに悩んでいる人に見えたに違いない。

「なんか、ありましたか?」

 あまり、迷わなかった。永井がどうにかしてくれるはずはなかったが、言って少し楽になろうと思った。

「仕入れ、入力ミスしたの今気付いた」

 目を閉じた。どうしようもない、くだらないミスの繰り返しに。

「……」

 聞いていたのかいなかったのか、つと秋元が立ち上がった。

「あぁ……報告書、書くしかないですね」

「うん……」

 そう話していると、なんと秋元が一枚のプリントをキーボードの上に置いてくれた。

 それが、誤差報告書だった。

「書いて帰らないと」

 ミス発覚後、すぐに書いた場合は、畑山のサインを経て、財務部にファックスされる仕組みになっている。

「……はい……」

 私は、溜息をついてボールペンを手に取った。

 これを畑山に提出し、サインをもらう。たった、それだけのことが、たった、数千円の入力ミスのことが、今はこんなにも重い。