自宅まで部長が迎えに来てくれたのは、これで2度目。

 今日は前回のようなカジュアルな恰好ではなく、半袖のストライプの綺麗なシャツだった。

「お腹すいたなあ……朝食べれば良かったな……」

 午前10時にうちで待ち合わせをして、ランチをする。これが、とりあえず今日決まっているデートの予定だ。

 今日は土曜日。今回は、泊まりじゃないよね……という期待を、先に制しておく。

「お腹空いてない?」

隣でハンドルを握る畑山は、こちらをちらと見て聞いた。

「えっ、まだ……」

「ならよかった。実は今日もね、熱海なの。ごめんね」

 何も聞かされていなかった私は、向かっている方向が熱海だということに、乗り込んで10分もしてから気が付いた。

「あっ、そうなんですか」

 それで10時の約束だったわけか。

 ここから1時間半。こだわりの店でもあるのかもしれない。

「今日はね、吉住の店がランチの試食会するっていうから、味見してもらおうと思って」

 別に悪い気はしなかったが、

「ごめんね、先に言って深く考えると嫌になるかなと思って言わなかったの、あえて」

 そう言われればたしかに、味見ということは感想を言わなければいけない。しかも、「美味しい」以外の言葉を。

「僕達だけじゃないから、後は何グループかあって、それぞれ知り合いらしいけど。けど、スタッフに直接言わなくても、僕に後で言ってくれればいいからね」

「はい、分かりました」

「うん……なんか、距離感感じるね、いつもの通り言われると」

 海から帰ってきたこの1週間、畑山とは毎日顔を合わせているが、それは仕事上のことだけで、つまり、顔は合わせているが、目はほとんど合わせていない状態といえる。

 電話番号とメールアドレスも知ってはいるが、生活リズムが分からないのにこちらから何か連絡するのは気が引けたし、また、相手からも連絡は、やはり前日までなかった。

「えっと……そうですか?」

「うん、彩さん」

 驚いたと同時に縮こまってしまう。

「あっ」

 右手に何か触ったので、慌てて手を引っ込めた。

「そんなに嫌がらなくても」 

 畑山は、前を見たまま、右手でハンドルを持ち、空いた左手で触れようとしてくる。

「すみま、せん……」

 上向きに広げられた畑山の左手が何を意味しているのか分かっていたが、うまく、行動に移せない。

「嫌じゃなかったら、手、置いて」

「………………」

 その手に自分の右手を乗せる。たったそれだけのことなのに、見つめることしかできない。

 私、本当に好きなのだろうか。畑山のことが好きでいいんだろうか、という疑問や不安が頭を巡る。

「…………あれー……待ちぼうけ」

 しばら広げていた手を閉じたり開いたりした後、畑山はさっと引っ込めた。今度は左手でハンドルを握り、右手を遊ばせている。

「すみません……」

 自分でも何の謝罪なのか分からなかったが、謝っておくのが一番良いと判断し、頭を下たげた。

「あのさ、ちょっと気になったんだけど」

「はい」

 何を言い出されるのか不安で、無意識畑山から目を逸らした。

「この前真紀さんが言ってたこと。
 上司だから断れないんじゃないのっていうくだり」

「あぁ。言ってましたね……えっ、いえっ、私は別に断れないとかそういうことは全然思ってないです。今日も別に、自分の意思で来ました」

 畑山の不安を取り除こうと必死で解説した。

「まあそうだね、彩さんは、嫌なら簡単に断りそう」

「……」

 どういう意味ですか、それ?

「でも、今日も一緒に来てくれて本当に嬉しいよ」

「……あの、でも私、一つ気になることがあるんですけど」

「何?」

 畑山は真っ直ぐ前を向いたまま聞いた。

「あの、あの。私はあの、最初は畑山部長は池内さんが好きだと思ってて……でも、部長もそれを否定しませんでしたよね?」

「(笑)、そうだっけ?」

 明らかに確信犯、と言いたげな含み笑いだった。

「でも、池内さん結婚してるよ?」

「ですけど、池内さんすごく綺麗だし」

「理由になってないけど」

 畑山は笑った。

「うーん。けど……池内さんが好きなのか、実は付き合ってるのか、どっちかはわかりませんでしたけど、そういう感じかなあと思ってて」

「なんて理不尽な」

「……すみません、けど、だって、畑山部長も否定しないし……」

「もともと僕はそういう考えはないからね。パートナーのいない人しか対象にしない」

「私もです」

「あれ、奇遇だね。更に僕達、フリー同士」

 いやまた、そういう話に戻されると困るんですけど……。

「それに、今の話だと、僕の気持ちを理解してるみたいだね」

 えっ、私、そんなこと言ったっけ!?

「最近永井君がえらく楯突いてきてるけど、僕の気持ちを理解した上で、そこに座ってくれているのなら、まあ、いい方かな」

「楯突いてきてる、って?」

 後半の言葉は無視をして聞いた。

「この前のランチの誘い方、あれは尋常じゃなかったな」

「あぁ……菅原さんたちもいた時ですね……。あれから本当にランチに誘われましたけど、断りました」

「あそうなの」

 畑山は間髪入れずに、安堵の声を出した。

「今日は先約がありますからって」

「……あ、今日だったの?」

「はい。けど、私の感では、今日とか、ちょっと畑山部長とお話しておかないとな、とか思っていたので……。けど、畑山部長は前日でないと何も言わないし、半分どうしようか迷いましたけど」

「それは永井君とランチに行くかどうか迷っていたということ?」

「池内さん誘って、子供さんも連れて行ってあげたら4人で行けますし。前そうやって食事したことあったんですよ」

「え、それってどうなの?」

「え…………」

 畑山の口調がきつくなった気がして、言葉を控えた。

「……あそう……まあ、いいけど」

「…………」

 なんだか不機嫌になったような気がして、不安だった。

「手かして」

 先ほどと同じように畑山は左手を仰向けて出す。だが、それを断れそうな雰囲気ではなかった。

 今度は素直に右手を乗せる。

「…………」

 畑山はしばらく黙って手を握ったり、緩めたりを繰り返している。

 永井の名前を出したのがまずかったのかな、と思いながらも、されるがままになっていた。

「…………一つ、聞いていいかな」

 しばらくぶりにようやく話が再開されて、少しほっとする。

 何気に前を見ると、信号が黄色になり、畑山は少し早めに停車したようだった。

 カチッとシートベルトを外す音が聞こえ、何事かとそちらを向いた。

 その時にはもう、畑山の顔がかなり近づいてきていて。

「付き合っていいよね?」

 真顔で目の前で尋ねられて、返事が遅れた。

「帰りまでに考えといて。返事次第では明日、指輪買いに行くから」

 そのまま、頬に軽くキスされる。

 車はすぐに発信した。シートベルトが外れたせいで、数回電子音が鳴ったが、すぐに絞め直したおかげで音は止まる。

 その間、右手が少し離れていたが、すぐに捉えられ、握られた。

 畑山は無言になる。

 何かのタイミングでスイッチが入ったのだろうが、それが私にはよく分からなかった。

「あの……永井さんの食事の件ですか?」

 とりあえず聞いてみる。

「何が?」

 違うのかもしれない。私はそのまま黙った。

「何? いいよ。なんでも聞いて?」

 そうは言われても、的ハズレなことを言うのは気が引けたので、黙っておく。

「……永井君との食事、行きたいって話?」

 沈黙がきまづかったのか、畑山から話を再開させてきた。

「いえ、別に……」

「言うつもりなかったんだけどね」

 畑山は手に力を込めると、まっすぐ前を向いたまま続けた。

「僕、永井に脅されたんだよね」

「えっ!?」

 驚いて目を見開いた。

「僕を降格させるほどのネタを持ってる、それをばらされたくなかったら、彩さんから手を引けって」

「…………」

 あの、永井が!? しかも、降格!?

「降格の検討はつかないし、食事には誘うし、困ったクンだよ、ほんとに」

「あの……」

 聞こえなかったのか、畑山はそのまま続ける。

「他には誘われてない?」

「えっ、また今度とは言われましたけど、はいって程度で返事だけには留めましたけど」

「…………あそう」

 低い声で返事したなと思ったら、手をぎゅっと握りしめて来た。

「今晩が楽しみだな……」

 そうか、ランチをして、こっちに帰ってきたら、おそらく夕方になるだろう。

「畑山部長は、予定ないんですか?」

 何気に聞いただけなのに、

「ないよ、月曜の朝まで」

 えっと……。

「返事次第では、今夜はうちにおいで」

 って、えっ!? なんか色々決定してる!?

「話しておきたいこともあるんでしょ?」

 やまあ、あるにはありますけど。

「しまった、掃除してくれば良かったな」

 と、呟くので、

「いえっ、あの、私、別におうちじゃなくてもいいですから!! 大丈夫です」

「ホテルがいい?」

 あの、そういう意味じゃなくて!!

「いえあのっ…………」

 少し、手を引かれた。同時に言葉が詰まってしまう。

「あんまり全否定しないの。がっかりするじゃない」

 ええー、私のせい!?

 そう思いながらも、返す言葉は見つからない。

「もうちょっと僕のこと、好きにさせないといけないね」

 今度は言葉に詰まり、俯いて黙ってしまう。

「ね?」

 畑山は前を見たまま、ぎゅっと手を握った。

 だけど私は、どう返して良いのかわからず、ただ無言のままだった。