「おはよう」

 目を開けて10秒ほど、見慣れない天井をぼんやり眺めていたところに、隣から声が聞こえて、相当驚いた。

「えっ……えっ!?」

 慌てて起き上がり、頭がぐらつく。

「…………っ……」

 自分が酒臭い。

 河野は俯き、右手で額を触りながら、何故となりで附和社長が寝そべっているのか、一生懸命思い出そうとした。

 全く、思い出せない。

「昨日のこと、忘れた?」

 ベッドの上で横になり、頭を手で支えてこちらを少し笑いながら見つめられる。

「…………」

 河野は何が起こったのか全く把握ができず、ただ、真顔でその絶妙な上目使いの視線を見つめた。

「忘れたとは、言わせないよ」

 不安が襲い、口元に手を当てた。全く思い出せない。社長が何を言っているのか、全く分からない。

「ふふふふふ……」

 社長は眉間に皴を寄せてこちらを見つめたまま笑い始めた、そう、冗談にきまっている。

「ホテルに行きたいってネダルなんて、僕が社長じゃなかったらどうするの」

 嘘……私、そんなこと言った!?

「でまあ、酔い潰れた河野さんを、まさかルームシェアの家に置いてけぼりにするわけにもいけないしねえ。相手は男性だから、危ないし。

 ……でもなんか、本当に覚えてないみたいだね。

 誰と食事に行ったかは、覚えてる?」

河野は血の気が引く思いで、数時間前の出来事を必死に思い出しながら

「みんな、で……」

 とだけ答えた。

「須山君が先に帰ったのは?」

「…………」

 河野は横に少し首を振った。

「須山君が先に帰って、その後橋台さんと3人でタクシーに乗ったんだけど、橋台さんうちの会社のすぐ近くの家だから、すぐに降りて」

 その先が気になり、身を乗り出して社長を見つめた。

「随分酔ってたんだろうね、僕に抱き着いて離れなくて困ったよ」

 そんなまさか!! こともあろうに社長に抱き着くだなんて、私、一体誰と勘違いしたの!?

「すっ、すみません……っ、申し訳ありません!!」

 シーツを見つめて、頭を深く下げた。

「いやまあ、……まあまあ、顔あげて?」

「本当に……記憶がなくて……申し訳ありません。全く覚えていなくて、わざわざここまで連れて来て頂いて本当にありがとうございました」

 そんなことするはずないのだが、そのまま路上にでも捨てられていたらと思うとぞっとする。

「……それで、ホテルに着いたら意識がほとんどなくて。危ないから僕と同じ部屋にしたんだ。まあ、僕なら勘違いされないだろうしね」

「とっ、当然です、本当にすみません! もうなんか、いきなり初日からこんなことになって、申し訳ありません。あの……」

 謝って済むものなのかどうか分からないが、とりあえず思ったまま言葉にしなくては、無言でいるわけにもいかない。

「で、何度も言ってたんで気になったんだけど」

「……はい……」

 どうしよう、私、変なこと言ってたんだろうか。社長の悪口だったらどうしよう!!!

 シーツを見つめて、その言葉を待つ。

「何度も好きだと言われて、キスをせがまれたんだけど、本気かな?」

 なっ…………。

 なっ……そんな、まさか……。

「目が虚ろだし、でも、酔ってるにしては、本気だってしつこいし」

「申し訳ありません……」

 何度目か分からないが、とにかく謝っておく。自分でも何を謝罪しているのか分からなくなってくる。

「僕は愛人を秘書にする趣味はない。けど、悪い気はしなかったよ」

 ……それってどういう……。

「君さえよければと思って、キスしたよ」

「…………」  

 なんで……私……。

 無意識に唇を指で撫でた。

「それも覚えてないの?」

 なんと答えてよいのか、全く分からない。

「……君がそうしたければ、なかったことにしてもいいけど。まあちょっと、こっち見なよ」

 逆らうことができず、俯いたまま顔をそちらに動かし、なんとか顔を上げてようやく目を合せた。

「……記憶になさそうだねえ……」

 社長は半ば呆れた声で、呟いた。

「申し訳ありません。覚えていなくて……お酒……本当は飲めなかったんです」 

 弁解をしておかなければ。それらは全て酒のせいで、人格のせいではないということを理解してもらわねば……。

「いや、酒はそれほど飲んでないよ。良い酒だから悪酔いもしないと思う。だから本心だと思ってたんだけど」

 そんなまさか!! 社長を好きだなんて、そんな、まさか……。

「人を好きになることは、悪いことじゃない。相手が社長であれ、なんであれ、むしろ、素直に表現してくれたことは、僕も嬉しいよ」

 いや私、好きだとかそんな……。

 社長は起き上がり、あぐらをかいて座ると、そっと頭に触れてきた。

「ごめんね、期待に応えられなくて」

 更に、抱きすくめられる。

 全くわけが分からず、ただ、その大きなワイシャツを着た、しなやかな肉体が触れて来ることを阻止することも、受け入れることもできなかった。

「これからも一緒に仕事していかないといけないし、そういう関係だとみんなに示しがつかない。

 だから今は……キスだけで諦めてもらえるかな?」

 え、ちょっと待って。私、キスしたいとか一言も言ってませんけど!?

 しかし、断ることもできず、ただされるがままに、顎を持たれる。

 ぐいと上を向かされて、髪の毛が後ろになびいた。

「何度も好きって言ってもらえて、嬉しかったよ……」

 優しく、軽く触れるキス。

「期待には応えられないけど、これからも君のことは見守っていくから」

 今度は頬にキス。

「一社員として、君も応えてほしい」

 更に、額にキス。

「……ね? ……」

 目を見つめられて、確認されても、逸らすことしかできない。

「怒ってる?」

 予想外の、耳にキス。

「君がうちの社員じゃなかったら……違っていたかもしれないね。こんな出逢いじゃなかったら」

 手を触れられ、ビクンと震えた。それでも構わず、手を握ったまま、親指を何度も往復させる。

「……あぁ、このまま帰すと、君は怒って合意がないキスだと、後でみんなに言いふらすかな?」

「とっ、とんでもございません!! そんな……怒るだなんて……」

「昨夜はあんなに、泣きそうなほど懇願してきたのに、今日はまるで別人みたいだね」

 いや。もしかしたら、別人かもしれません……。

「……キスだけならいいか……。君が喜ぶなら」

 えっ!? 喜ぶって、そんな……。

「これからの君に、期待してるよ……」

 その言い方ってどうなの!?

 少しムッとしたと同時に、唇が落ちてくる。

 そして、構わず舌が侵入してきた。

 思わず、繋いでいる手に力を込める。

 すると社長は、それに応えるように、右手で背中を抱き、より深く口づけてくる。

 抱き締められたからといって、どうすれば良いかも分からず、時々舌を引っ込めて、様子をうかがってしまう。

 それに気づいた社長は一旦唇を離すと、耳元に顔を近づけ

「遠慮しなくていいよ。……今だけは……」

 好きじゃ、ないのに。

 遠慮してはいけない気がして、口づけられたと同時に、舌を絡ませた。

 支えが欲しくて、社長のワイシャツを少し掴む。

 それを合図に、頭の後ろに掌がまわり、そのまま後ろに押し倒された。

 一瞬も唇は離れない。

視線が何度も絡み合い、その度に河野から逸らす。
 
社長は雰囲気に酔いしれているようで、繋がっただけの手の指をゆっくり絡ませ、長い睫を伏せながら

「好きと言えなくて、悪いね……」

と、もう一度深く口づけてきた。