「…………え……」

 長い廊下を案内してくれていた仲居が、上等な襖を開けるなり、附和薫社長は目を真ん丸にさせて驚いた。

 商談が長引いたせいで会食の予定より10分ほど遅れたせいで、既にテーブルの上には色とりどりの料理が並んでおり、上座には『友人』が寛いでいる。

その隣に座っているのは女性。年齢は若く、美人でいかにもという風だ。

いかにも、何なのか。そう聞かれれば一般OLの河野にはピンとこないが、とにかく、社長には若い美人の女性がつきものだというよくあるパターンのことである。

本日、河野は高級料亭船場吉兆で社長のプライベートともいえる夕食会に、参加されられていた。

何かに驚き数秒停止していた附和はようやく動き始め、巽社長の前に座り込む。遅れてその隣で正座するのはもちろん河野だ。

対面している美女が眩しく、比べても仕方ないが、見劣りする自分が悲しい。一目見て分かるブランド物のピンクの淡いワンピースに首元のダイヤのネックレスが王道なりとも見事に輝き、完璧な振る舞いで、堂々と附和社長に微笑みかけながら挨拶もこなしている。

「初めまして、烏丸 萌絵(からすま もえ)です」

「烏丸さん……ということは、ひょっとして、烏丸幹事長の……」

「父をご存知だということは、父からお伺いしております」

 烏丸はにこりと微笑み、少し恥ずかしそうに視線を下に伏せた。

「え?」 

 附和は何が言いたいのか、巽社長に突っかかっていく。

「何だ? 飯くらい穏便に食わせろ」

 巽は附和を見ずに、お猪口を傾けた。

「香月(こうづき)さんは?」

 附和は更に眉間に皴を寄せて、低い声で聞く。

「香月さんともお知り合いなのですね」

 附和は烏丸の一言に驚いた表情を見せ、また視線を巽社長に戻す。

「えっ…………、お前…………」

 巽社長を見る附和の目つきが変わった。睨みつけるように、鋭くなる。

「……隣は?」

 巽社長にちら、と見られて、慌てて河野は

「挨拶が遅れて申し訳ございません。秘書の河野です」

 と簡単に名乗る。

「なんだ? 今度は秘書か?」

 巽社長はふふんと笑って、また酒を一口飲む。

 まるで挑発ともとれる言い方だったが、附和はそれを完全にスル―し、

「悪い、今日は帰る。失礼を承知だが、どうも……」

 座って5分で席を立った附和は、いつもと人が違うようだった。当然まだ何も箸をつけていない料理をそのままに、部屋から出ようと早くも襖に手をかける。

「おい、せめて仕事の話でもしたらどうだ?」

 巽社長は半ば強引に引き留めようとする。だが、

「そんな気になれるはずないだろ……」

 小さくそれだけ言い残し、河野を忘れたように1人廊下に出て行った。

「もっ、申し訳ございません。今日はこれで失礼いたします」

 河野は慌てて頭を下げて、後を追う。だが、その様を見ている者はそこにはおらず、烏丸が一瞬見せた苦そうな女の顔が、ただ頭に焼き付いてしまった。

 駐車場に河野が着くのと、待たせておいたプレジデントに附和が乗り込むのとは同時だった。河野も慌てて乗り込み、附和の顔色を伺う。

附和はすぐにタバコに火をつけた。

 確か、どこかの会長と食事の後に一服していたのを一度だけ見たことがある。今は相当何かに苛ついているようだ。いつもの附和の顔ではない。

 相当嫌なことがあったんだろう。やはり烏丸絡みだろうか。もしかして、烏丸が元彼女とか? いや、それはない、相手は名乗り、それを幹事長の娘とかで確認していたではないか。いや、あれは芝居?

 河野の中で様々な憶測が巡る。

「綺麗な子でね……」

 附和はサイドウィンドを少し下げると、まるで独り言のように話を始めた。

「女優……いや、そんなんじゃない、まるで女神のような、高貴で美しく、そして気高い女だった。俺がひっかけてもなびきやしない」

 嬉しそうに、苦笑して、煙を吐き出す。

「巽一筋。もう何年一緒にいたんだろうなぁ。5年……、そのくらいは経っていただろう。それと同じくらい俺も近くにいた。

 キャバ嬢に落ちて。それを救ってやるために、何百万も遣ったこともある。

 いい女だった……、まっすぐな美人だった」

 煙を肺一杯に吸い込んでいる。河野は、その間を利用して質問を開始した。

「巽社長とお付き合いされてた女性ですか?」

「そう。アイツも長続きしないタイプなんだけど、コロッといってね。さすが巽を落とすだけあって手は焼いてたみたいだけど……、羨ましかったな。巽に落ちるんなら俺にも落ちるだろうと思ったんだけど、それも外れて。

 でも、楽しかった」

 いつも適当で明るい社長が、心底楽しいと思えることが他にあったのだということを知り、少しさみしくなる。

「あの烏丸さんという方が新しい彼女なんですか?」

 河野はそっと聞く。

「だろうね……。何考えてんだか、全く読めないよ……」

 天井に吹きかけた煙は、すぐに窓の外に流れてゆき、掴むことなど到底できはしない。

「……話くらいは聞いてやらないとね……。亜美ちゃん」

 突然名前で呼ばれ、驚いて附和を見た。

「はいッ」

「今日はもう帰っていいよ。近くで下してあげる。君を振り回して悪かったね……」

 社長はこちらを見ずに、窓の外を見ながら言う。

「いえ……」

「今まで、君を振り回して悪かったね」

「えっ、いえ……」

 今まで、という言葉が引っかかる。

 附和は短くなったタバコを灰皿でもみ消し、ズイッと顔を寄せて来た。

「君を、解放してあげる」