そっとしておくのが一番良いと言われた手前、食事を部屋へ持って行くこともできず、河野は1人、それなりに悩んでいた。

 様子がおかしかったら連絡をと名刺を渡されたのにも関わらず、そっとしておくという行為は非常に難しい。

 その日の午後7時。フライパンで餃子を12個も焼きながら、とりあえず、皿に盛ってリビングのテーブルの上に置いておこうか、それとも、キッチンの中に置いておこうかと思案する。

 斉藤は、昼食は何を食べたのだろう。キッチンやゴミ箱にはそれらしい物は何もない。

 とりあえず、電気を止め、キッチンペーパーを探す。

 そういえば前回の親子丼の時にキッチンペーパーが濡れて捨ててしまったため、ストックを吊戸棚から出さなければならなかった。

 入れる時は適当に投げ込んだものの、いざ出すとなれば手が届かない。

 今日こそはしっかり踏み台に上って出そうと思っていたのにも関わらず、こんな時に限って踏み台が見当たらない……。

「えっ……」

 まさか!!

 ここの踏み台を使って首を吊る気じゃ!!

 ガチャ。

 突然の音に心臓が大きく鳴って、痛いくらいだった。

 今まさに妄想の中で首を吊ろうとしていた斉藤は、だるい顔をしながら、ぼんやりと部屋から出てきたのであった。

 まさか、今準備中なのだろうか!?

 河野はただ斉藤の動きを目で追った。

 予想に反して彼は、キッチンの中へ入ってくる。

 河野はまだ、妄想から離れられずに、黙ってその姿を見ていた。

「……なんだ?」

 話しかけられたことに驚いて飛び上がりそうになる。

「えっと……あ! 踏み台! 」

「あぁ……随分前に捨てた」

「えっ!?」

 こちらの反応など全く気にせず、斉藤は蛇口の水をコップに注いだ。

「安物だから立て付けが悪かったぞ。……なんだ? キッチンペーパーか?」

 ようやくこちらを見てくれる。

 河野は緊張を隠すように、「うん」と返事をして頭上を見た。

「言えば取ってやるよ」

 コップをシンクに置き、さっと右手を伸ばして取ってくれる。目の前に広がる白いティシャツ一枚の厚そうな胸板に、思わず吸い寄せられそうになる。

「あっ!」

 斉藤の驚いた声に、慌てて顔を見ようとしたが、どういうわけか、その堅い胸が目の前を覆ってしまう。

 更に、キッチンペーパーを持っていた斉藤の大きな右手が河野の左肩に触れ、突然抱きしめられるような形になってしまい、頬が紅潮するのを止めることなどできなかった。

「おい、詰め込みすぎるな。落ちたら危ないだろうが」

 上から、溜息混じりに声が降ってくる。

 そういえば、キッチンペーパーをストックしていた物があって、それを押し込んでいた。一つ取り出したことによってなだれが起きたようである。

 もちろんさっと身を引いた斉藤は、シンクに二袋のキッチンペーパーを置き、ただ俯いて赤面している河野を一瞥すると、そのままキッチンから出た。

「餃子、俺も食うから」

 思いもよらぬ言葉に、顔を上げた。

 斉藤は早くもどかりとソファに腰をかけ、準備ができるのを待っている。

 河野は自分でも分かるほどの表情の移り変わりに一旦歯止めをかけて、「はい」と一言返事をすると、大急ぎで支度を開始した。

 
 食事中、斉藤はずっとテレビを見ていた。すぐ隣で河野は腰かけている。何か話しかけたいという気持ちもあったが、いらぬことを聞いてしまいそうで、ただその様子を伺うことにした。

 バラエティ番組が賑やかに流れるのをなんとなく見ながら、斉藤は1人、食べ進めていく。

 しかしその横顔は、榊医師に内心を打ち明けたことによって吹っ切れたのか、朝見た顔より幾分も晴れやかに見えた。

「……ふぅ……」

 しばらくしてしっかり完食した斉藤は、溜息をつきながらソファにもたれる。ほぼ同時に終えた河野は、まずテーブルを片付け始めた。

「……榊は何か言ってたか?」

 不意に話しかけられ、驚いて目を見た。

「さか、き……あぁ、うん……。一応名刺もらった」

「名刺?……他には?」

 言うべきではないだろうと、口をつぐむ。

「ううん……」

「…………」

 何を伝えていると思ったのだろう、斉藤の顔は少し納得がいかないようだ。

「女がいたんだ」

 カチャリ、と食器を重ねる音に混じって、突然のその低い声を聞き逃してしまう。

「えっ?」

 河野は手を止めて、俯いて一点を見つめる美顔を注視した。

「兄さんに女が……。遺書も書いてなかったくせに、女に伝言なんか預けやがって……」

 その表情は険しいが、聞かないわけにもいかない。

「えっと……なんて?」

「『たまには血を見ないで、空を見上げろ。誰かと一緒に』って。通夜でそれ聞いた途端、病院のことや、患者のことなんか、どうでもよくなって……」

「見に行きましょうか、空!」

 斉藤の見開いた目がこちらに向いた途端、そっとしておくという言葉を思い出す。だが彼は、微笑しながら立ち上がり、

「今までも見てなかったわけじゃねーのにな」

と、優しい顔で呟いた。