──局を脱するまじきこと。
その法度を破れば即ち切腹である。脱走することの重大性が分かるからこそ、光はますます鹿助の行動が理解出来なかった。
ましてや、危ない世界に身を浸していた者に追っ手を差し向けることなど、火を見るより明らかであるというのに──。
今、光は先生と慕った男の死の真相に迫っているのだ。無意識の内に速まる鼓動を静めるため、気を紛らわすように酒を流し込む。
「……なあ、下川」
やはり、立花の声は笑みを含んでいた。立花の目は震える光を捉え、その苦痛を楽しむかのように笑っている。
「何故、あの方が脱走して裏切りを犯したお前を捕まえないのか、分かるか。本当に、苗字を変えただけで、あの方から逃げ仰せることができるとでも?」
頭の中が真っ白になる。
一体何を言われたのか、光は直ぐには理解出来なかった。彼の言葉は、光が逃げた後も、光の居場所が知られていたかのように聞こえる。
「随分と楽観的だな」
「知られてた、のか」
絞り出した声は掠れ、息は見苦しく震える。
「そうだ。そもそも、あの方にとってお前が逃げることは織り込み済みだった。そして、敢えて止めなかった」
「……何故」
「お前を始末し易くなるからだ」
指先から一瞬で血の気が引いた。光の震える手を、逃がすまいと立花の大きな手が強く強く握り締める。
女夜叉と呼ばれる雪のまるで無垢な少女のような姿を思い返し、光は怖気に襲われた。
虫をも殺さぬ顔をしている彼女は、その実、夜叉という名に相応しい残酷さを持っているのだ。



