運命の人

 一直線に叶子に向けられているぶれのない瞳は、彼の内にある本心を露にしている。
 以前、彼女の話に一切耳を傾ける事無く一方的な感情で叶子を抱いたあの日とは全く違い、今の彼にはどこか余裕さえも感じられた。

 ジャックは再び叶子に背を向けると、デロンギのエスプレッソマシーンから賑やかなスチーム音が響かせ、叶子の好きなミルクティーの準備を始めた。茶葉を蒸らしている間にジャケットを脱ぎ、反対側の壁にあるクローゼットの中に上着を仕舞う。ネクタイを片手でクイッと緩める仕草に叶子がボーっと見惚れていると、紅茶を淹れる為にまた叶子に背を向けた。

「あの、さ」
「なに?」
「そんなにジッと見られると、ちょっと恥ずかしいかも」
「えっ? ああ、ご、ごめんなさい!」
「あ、いや、いいんだけど、ね。ははっ……」

 鼻の下を指でこすりジャックは照れている様子だった。
 久しぶりに会ったジャックをまるで補給するんだとばかりに、彼の一挙一動に目が離せなかった。自然と目で追っていたとはいえ、あまりの恥ずかしさにかあっと頬を染めた。

「君がいなくなったあの日から、僕は又どうしたらいいのか判らなくなったんだ」

 背中を向けたまま、ジャックが話しだす。
 いつもは逞しく見える広くて大きな背中が、今は心なしか小さく見えた。

「君の手紙を見て正直戸惑ったよ。すぐに会いたかったけど“会ってくれるだろうか?”電話したいけど“出てくれなかったらどうしよう?”とかね。結果を知るのが怖くてずっと逃げてた。その内に又仕事が忙しくなってきて、逃げている自分を必死で正当化してたんだ。逃げてるんじゃない、仕事が忙しいからだ──って。でも少し間を空けたお陰で、僕がやる事全てが全部裏返しになって結局君を傷つけていたと言う事にやっと気付いたよ。──ったく、今になってようやく気付くなんて本っ当情けないよね」

『あははっ』と、力なく笑いながらマグを持って彼女の隣に腰を沈める。ミルクティーを手渡し、叶子はそれで手を温める様にして両手でマグを包み込んだ。
 一口紅茶を口に含めばじんわりとお腹の辺りに温もりが広がっていく。それと同時に、ジャックの言葉が叶子の心の中も温めてくれた。

「私も貴方と会えなくなって貴方の事を思う気持ちがどれ程大きかったか判った気がする。自分から逃げ出すようにして出て行ったのに、日を追う毎に苦しくて……キツかった」

 マグを見つめながら叶子が言葉に、ジャックは目を丸めた。

「本当に?」

 黙ってコクリと頷く叶子を見て、ジャック口元が綻び始める。そんな顔を叶子に見られたくないのか、口元を覆うようにして片手で口を塞いだ。

「あの……少し聞きたい事があるの。ずっと私の中で引っかかってて、その事を考えると頭が混乱しちゃって」
「……あ、うん。な、何? 何でも答えるよ」

 ジャックは緩んだ顔を両手でこすり、姿勢をただして両手を膝の上に置いた。

「あの……この間、健人が貴方に言った事なんだけど。――あれは本当なの?」

 ジャックが自分にとってとても大切な存在である事に気付いた叶子は、この際ずっとつっかえていたものを解消しようと思い切って訊ねてみた。仮に、その返事が仮に残念なものであっても全てを受け止める覚悟だった。

「この間僕に言った事?」
「その、女性を弄ぶ的な……」
「……ああ! その事か。彼にも言ったけど一体何処からそんな話聞いたの? 根拠のないデマだよそんなの」
「でも、絵里香は! ……あ」

 思わず絵里香の名前を出してしまい、しまったとばかりに今度は叶子が両手で口を塞いだ。

「絵里香ちゃん? ああ、ラ・トゥールでの話を聞いたんだね」

 黙って頷いていた叶子に、ジャックは小さく溜息を吐き、困ったなという様に眉尻を下げながら話し始めた。

「何処まで聞いているか判らないけど、何人かの子に付き合って欲しいみたいな事を言われたよ」

 自分から聞いておいてなんだが、叶子にとってジャックの女性関係の話を聞くのはかなり辛いものであった。しかも、ラ・トゥールで何人かの子、って事は他の店でも又何人かの子がいるのだろうともとれるからだ。
 いつもは鈍いくせにこんな事だけ無駄に頭が働いてしまう自分を恨んだ。

「でも、そんな気にはなれなかったから丁重にお断りしたんだけど。それが女性を弄ぶに何故なるのかな?」
「その子達は貴方に誘われて、その、かっ、体の関係を持ったら捨てられたって」
「はぁっ!? 何それ?? ラ・トゥールでもそんな事言われてたの??」
「でも?」

 やれやれと言った表情で両手を広げると、今度は大きなため息を吐いた。

「何故だか僕が女性の申し出を断ると、途端にその店に行き辛くなるんだ。僕が入店した途端、ホールの人が一斉に散る始末でさ。自然と入店拒否されてる様な気分になってその店に行きたくなくなるんだ。ラ・トゥールもその一つさ」
「……。」
「で、懇意にさせてもらってるある店のオーナーに訊ねると、今君が言った様な事を聞かされたよ。どうやら振られた腹いせにそんなデマを言っているみたいだ」
「そう、なの?」
「神に誓って僕はそんな事しないよ」

 胸元に手を置きながら淀みのない目を向けられる。真っ直ぐ見つめて話すそんなジャックに、叶子は自分を騙すつもりはないのだと確信した。
 端正な顔立ちに長い手足。レディファーストが当たり前の国で育ち、誰に対しても柔らかい物腰で接するジャック。そんなハイスペックな彼に優しくされでもしたら、世の中の女性は皆自分は特別なのだと勘違いしまうのも仕方が無いとさえ感じた。

「そう、なんだ」

 叶子は両手を胸の前に組みほっとした表情を浮かべている。胸の支えが取れて随分楽になったのか口元には薄っすら笑みさえも浮かんでいた。
 最初から直接彼に聞いていればこんなに苦しくなる事も無かったのにと、疑っていた自分を責めたてた。

「気が済んだ?」

 叶子の顔を覗き込み、悪戯な表情で笑う。叶子は申し訳なさそうにコクンと頷くと、ジャックは目を細めた。

「じゃあさ」

『仲直りのキス、しよう?』甘い低音の声が胸に染み渡る。彼の暖かい手が彼女の頬を包み込むと、徐々に二人の距離が狭められた。

 ジャックの顔が近づいてくると、胸の鼓動が一際大きくトクンと音を刻む。何度も口唇を合わせた事があるのに、今日は何処か特別な気がした。
 互いの睫毛がゆっくりと伏せられていく。互いの吐息が口元を掠めたその時、コンコンっと誰かが扉を叩くその音によって甘い時は終わりを告げた。

「……。」

 閉じていた目が同時に開き、至近距離で見詰め合う。眉間を寄せた二人の表情が、あと数秒でも遅ければ口唇を触れ合わせる事が出来たのにと物語っていた。

「ちょっと待ってて」

 ジャックは立ち上がると扉を開ける。そこには大きな紙袋を提げたジュディスが立っていた。

「あの、こちらでよろしいでしょうか?」

 地下に入っているテナントはもうとっくに閉店しているというのに、たまたま棚卸でまだ人が残っていた店があって、無理矢理開けて貰ったのだとジュディスが言った。
 買ってきた服が入った大きな紙袋と彼のクレジットカードを差し出す。

「ありがとう、ジュディス。助かったよ」

 そう言って扉を早々と閉めようとする彼に、ジュディスが身を乗り出した。

「あの! 打ち合わせ室を開けておりますので、宜しければそこでお着替えを……」

 そう言いながらジュディスは余程叶子の存在が気になるのか、立ち塞がるジャックの隙間を縫って社長室の中の様子を窺っていた。
 叶子を心配してと言うよりかは、単に興味本位での行動のようにも見て取れるジュディスに、

「ありがとうジュディス。君は本当にいい秘書だよ。――でもその必要はないから」

 あっさり却下すると、パタンと静かに扉が閉められた。

「あっ! ……、──。」

 ジュディスは複雑な気持ちになりながら、扉に背を向け歩き出そうとしたが、再び扉が開く音が聞こえて振り返ると、何か思い出したかの様な顔をしたジャックが扉から出てきた。
 後ろ手でドアをきっちり閉め、ジュディスに手招きをする。

「やはり打ち合わせ室を使われますか?」
「いや、そうじゃなくて。あのさ、受付の二人、クビにしたから手続きしといてね」
「え!? クビにしたんですか? ど、どうしてですか?」
「人の気持ちが判らない人間がこの会社の顔として働いているなんて考えられないよ。いいかい? ここに来る人はまず最初に彼女達に会うんだ。言わば会社の顔だ。それがあんな対応しか出来ないなんて我が社の恥に等しいね」
「そ、そうですか」
「じゃ、宜しく。──あぁ、君もビルももう帰っていいよ、お疲れ様」

 そう言うと又扉の向こうへ消えていった。