どんなに辛い事があって深く傷ついても、ひとたび眠りにつけば毎日嫌でも朝はやって来る。深い眠りから覚める度、あれは夢だったのではないかと思ってしまう。しかし、枕もとに置いた携帯電話を目にするたび、これが現実なのだと思い知らされていた。
いつしか、彼からの着信が入っていないかどうか携帯電話の着信履歴のチェックをすることが、朝目覚めてからいの一番にする毎日の日課となってしまっていた。
日を追う毎に人は不思議と悲しく辛い感情は霞み、楽しかった思い出だけが鮮明に頭に残る。その想い出にすがるように、いつか彼から連絡があるのではないかと期待に胸を膨らませるが、現実はそう甘くはなかった。
何度も携帯電話を見ては小さく溜息をつく毎日を繰り返す。
ジャックと距離を置くと言うことは自分で決めた事ではあったが、それが必ずしも正解ではなかったのではないかと自分を疑い始めていた。
◇◆◇
「ちょっとカナちゃん! ここ、何でこの色使ったの?」
「え? そこは先方の指定の色で」
「違うよ! 良く見て!」
「……あ」
「もう! 頼むよ!」
「すみません」
いつもの叶子であれば、こんな初歩的なミスを犯す事などない。ジャックの家を飛び出したあの日から上の空になる事が多くなっていた。
肩を落としながらオフィスを後にする。
ビルのエントランスを出ると、柔らかく懐かしい声が叶子の耳に聞こえてきた。
『──カナ』
「――!」
叶子の顔から笑顔が零れ落ちる。
よくジャックが待っていてくれたその場所を振り返ると、そこは普段と何も変わりないいつもの風景であることを知る。すぐに叶子の顔から笑みは消え、苦笑いを浮かべた。
(とうとう幻聴まで聞こえるようになったのか)
くるりと向きを変え駅への道をいつもの様にトボトボと歩き出した。
街中は家路へ急ぐ人達で溢れかえっている。
その人の波に乗り切れていない速度で下を向いて歩く。後ろから来る人達が追い抜き様に邪魔だと言わんばかりの視線を浴びせられ、中には舌打ちを打つ者もいた。
「――、……きゃっ!」
向かいから歩いて来た人と肩がぶつかり、力なく握っていた叶子のバッグが路上へと落下する。そのはずみでバックの中身が少し散らばった。
慌ててその場に屈んで荷物を拾う叶子の目は涙で潤み、上手く拾えない。
いつの間にか彼を探している自分が情けなくて、
道路に這いつくばっている自分が情けなくて、
思わず堪え切れなくなった感情が溢れ出して来た。
「え? ちょ、何やってんの!?」
その声に顔を上げると、周りの人と全く逆の流れで自分の方へ向かってくる健人が見えた。叶子の腕を掴むとすぐに立ち上がらせ、代わりに落ちていた荷物を手早く集めだす。全部拾い集めた健人はち上がると、バッグを叶子の顔の前へと差し出した。
「こんなとこで屈んでたら皆に踏まれるだろ?」
「あ、ありがと」
「――。」
「あ、え? なに?」
小刻みに震えながらバッグに伸ばしたその手を健人に掴まれ、その人の流れから飛び出し駅とは違う方向へ黙々と歩き出した。
「ちょっと、あんた会社戻る所じゃないの?」
「やめた」
「やめたって……」
「お前のそんな顔見たらほっとけないだろ」
───お前?
いつもの叶子なら、何故お前呼ばわりされなきゃならないのかと健人に食って掛かっていただろう。ジャックの口からは決して聞くことが無いだろう『お前』と言う言葉に、わずかながら親近感を抱いていた。
外回りから戻った健人と繋いだ手はジャックとは違って冷たく、ゴツゴツとしている。たったそれだけの事で、自分と同じ位置で同じ物を見ているのだと感じた。
所詮、ジャックは手の届かない人。凡人の自分とは全く違う世界にいる人なのだと痛感した。
◇◆◇
「健人」
問いかけてみても返事はない。三度目でやっと健人が声を出した。
「健人、何処へ行くの?」
「わかんねぇよ」
「何それ?」
健人の間の抜けた返答に可笑しくなって思わず笑い出した。叶子の辛そうな顔を見て思わず手を掴んで歩き出したはいいものの、健人は何処に行こうとしているのかなんて考えていなかった。側に居てやりたい。ただそれだけの思いが先に立ち何の考えもなしに彼女を連れ去った。
ひとしきり笑った後、急に叶子が足を止める。と、同時に健人が掴んでいた手が離された。
「もういいよ。私、帰るから」
「なんで?」
「見かけによらずあんたって優しいんだね。勘違いしちゃいそうだよ」
「――勘違いすればいいじゃん」
「え?」
「勘違いしろよ」
「何言って――」
「俺、本気だから」
「へ?」
「本気でカナちゃんと、ちゃんと付き合いたいと思ってる」
「……っ」
思いがけない健人からの告白に叶子は戸惑いを隠せなかった。案外いい奴だと思い直したのは事実だが、八歳も年下の健人を今までそういう対象に見たことが無かったのだから動揺してしまうのも仕方が無かった。
『冗談でしょ?』と言いかけた言葉を飲み込んだ。真っ直ぐに自分を見詰める健人の目には本気の色が映って見えた。
「すぐにあんな奴忘れさせてやるよ」
「ちょ、ちょっと待って健人落ち着いて。あんたと私八歳も歳がはなれてんだよ?」
「関係ねぇーし」
「か、関係あるよ! 八歳って言ったら……同時に小学校通えないんだよ?」
「なんの例えだよ」
「とりあえず、今の話は聞かなかった事にするから。……じゃね」
「なっ!?」
そう言って、健人から逃げる様にして背を向けると、再び駅に向かって歩き始めた。しかし、すぐ様健人に腕を掴まれてしまう。
「もう、いい加減に」
「年下だから相手にしないなんて、馬鹿にすんなよ! ───くそっ! どいつもこいつも!」
突然、怒りの感情をあらわにする健人に、叶子の眉根が寄る。そう言えば、彼と顔合わせをすると健人が言っていたのを思い出した。
「もしかして、彼に何か言われた?」
「……っ」
健人の脳裏にジャックに罵倒された出来事が鮮明に浮ぶ。悔しくて、腹ただしくて──。でも、何も言い返せなかった。
ジャックにまるで相手にされなかった無様な自分。プライドをズタズタにされ、地団駄を踏んだあの日を思い出した。
「ねぇ、何を、彼に一体何を言われたの?」
「あいつ、俺の事散々コケにしやがって。俺はカナちゃんに見合う男じゃないっ、自分こそがカナちゃんの恋人に相応しいんだなんて事を偉そうに。……でも俺はっ! ……!?」
「そ、う。彼が――そんな事を」
健人の話を聞いた叶子は、焦点の合わない目で口元を緩めている。その話を聞き、諦めかけていた気持ちにまるで希望の光が差し込んだような恍惚とした表情を浮かべていた。
まるで、二人の仲を修復させるような事を言ってしまった健人は当然面白くない。
「っ!!」
「えっ? な、何?」
思わずカッとなり、ビルの隙間にある路地裏に叶子を連れ込んだ。
そのまま叶子を壁に押し付けると、大きな掌ではすっぽりと隠れてしまいそうな叶子の顔を両手で掴み、黙れと言わんばかりに無理矢理彼女の口唇を自らの口で塞いだ。
いつしか、彼からの着信が入っていないかどうか携帯電話の着信履歴のチェックをすることが、朝目覚めてからいの一番にする毎日の日課となってしまっていた。
日を追う毎に人は不思議と悲しく辛い感情は霞み、楽しかった思い出だけが鮮明に頭に残る。その想い出にすがるように、いつか彼から連絡があるのではないかと期待に胸を膨らませるが、現実はそう甘くはなかった。
何度も携帯電話を見ては小さく溜息をつく毎日を繰り返す。
ジャックと距離を置くと言うことは自分で決めた事ではあったが、それが必ずしも正解ではなかったのではないかと自分を疑い始めていた。
◇◆◇
「ちょっとカナちゃん! ここ、何でこの色使ったの?」
「え? そこは先方の指定の色で」
「違うよ! 良く見て!」
「……あ」
「もう! 頼むよ!」
「すみません」
いつもの叶子であれば、こんな初歩的なミスを犯す事などない。ジャックの家を飛び出したあの日から上の空になる事が多くなっていた。
肩を落としながらオフィスを後にする。
ビルのエントランスを出ると、柔らかく懐かしい声が叶子の耳に聞こえてきた。
『──カナ』
「――!」
叶子の顔から笑顔が零れ落ちる。
よくジャックが待っていてくれたその場所を振り返ると、そこは普段と何も変わりないいつもの風景であることを知る。すぐに叶子の顔から笑みは消え、苦笑いを浮かべた。
(とうとう幻聴まで聞こえるようになったのか)
くるりと向きを変え駅への道をいつもの様にトボトボと歩き出した。
街中は家路へ急ぐ人達で溢れかえっている。
その人の波に乗り切れていない速度で下を向いて歩く。後ろから来る人達が追い抜き様に邪魔だと言わんばかりの視線を浴びせられ、中には舌打ちを打つ者もいた。
「――、……きゃっ!」
向かいから歩いて来た人と肩がぶつかり、力なく握っていた叶子のバッグが路上へと落下する。そのはずみでバックの中身が少し散らばった。
慌ててその場に屈んで荷物を拾う叶子の目は涙で潤み、上手く拾えない。
いつの間にか彼を探している自分が情けなくて、
道路に這いつくばっている自分が情けなくて、
思わず堪え切れなくなった感情が溢れ出して来た。
「え? ちょ、何やってんの!?」
その声に顔を上げると、周りの人と全く逆の流れで自分の方へ向かってくる健人が見えた。叶子の腕を掴むとすぐに立ち上がらせ、代わりに落ちていた荷物を手早く集めだす。全部拾い集めた健人はち上がると、バッグを叶子の顔の前へと差し出した。
「こんなとこで屈んでたら皆に踏まれるだろ?」
「あ、ありがと」
「――。」
「あ、え? なに?」
小刻みに震えながらバッグに伸ばしたその手を健人に掴まれ、その人の流れから飛び出し駅とは違う方向へ黙々と歩き出した。
「ちょっと、あんた会社戻る所じゃないの?」
「やめた」
「やめたって……」
「お前のそんな顔見たらほっとけないだろ」
───お前?
いつもの叶子なら、何故お前呼ばわりされなきゃならないのかと健人に食って掛かっていただろう。ジャックの口からは決して聞くことが無いだろう『お前』と言う言葉に、わずかながら親近感を抱いていた。
外回りから戻った健人と繋いだ手はジャックとは違って冷たく、ゴツゴツとしている。たったそれだけの事で、自分と同じ位置で同じ物を見ているのだと感じた。
所詮、ジャックは手の届かない人。凡人の自分とは全く違う世界にいる人なのだと痛感した。
◇◆◇
「健人」
問いかけてみても返事はない。三度目でやっと健人が声を出した。
「健人、何処へ行くの?」
「わかんねぇよ」
「何それ?」
健人の間の抜けた返答に可笑しくなって思わず笑い出した。叶子の辛そうな顔を見て思わず手を掴んで歩き出したはいいものの、健人は何処に行こうとしているのかなんて考えていなかった。側に居てやりたい。ただそれだけの思いが先に立ち何の考えもなしに彼女を連れ去った。
ひとしきり笑った後、急に叶子が足を止める。と、同時に健人が掴んでいた手が離された。
「もういいよ。私、帰るから」
「なんで?」
「見かけによらずあんたって優しいんだね。勘違いしちゃいそうだよ」
「――勘違いすればいいじゃん」
「え?」
「勘違いしろよ」
「何言って――」
「俺、本気だから」
「へ?」
「本気でカナちゃんと、ちゃんと付き合いたいと思ってる」
「……っ」
思いがけない健人からの告白に叶子は戸惑いを隠せなかった。案外いい奴だと思い直したのは事実だが、八歳も年下の健人を今までそういう対象に見たことが無かったのだから動揺してしまうのも仕方が無かった。
『冗談でしょ?』と言いかけた言葉を飲み込んだ。真っ直ぐに自分を見詰める健人の目には本気の色が映って見えた。
「すぐにあんな奴忘れさせてやるよ」
「ちょ、ちょっと待って健人落ち着いて。あんたと私八歳も歳がはなれてんだよ?」
「関係ねぇーし」
「か、関係あるよ! 八歳って言ったら……同時に小学校通えないんだよ?」
「なんの例えだよ」
「とりあえず、今の話は聞かなかった事にするから。……じゃね」
「なっ!?」
そう言って、健人から逃げる様にして背を向けると、再び駅に向かって歩き始めた。しかし、すぐ様健人に腕を掴まれてしまう。
「もう、いい加減に」
「年下だから相手にしないなんて、馬鹿にすんなよ! ───くそっ! どいつもこいつも!」
突然、怒りの感情をあらわにする健人に、叶子の眉根が寄る。そう言えば、彼と顔合わせをすると健人が言っていたのを思い出した。
「もしかして、彼に何か言われた?」
「……っ」
健人の脳裏にジャックに罵倒された出来事が鮮明に浮ぶ。悔しくて、腹ただしくて──。でも、何も言い返せなかった。
ジャックにまるで相手にされなかった無様な自分。プライドをズタズタにされ、地団駄を踏んだあの日を思い出した。
「ねぇ、何を、彼に一体何を言われたの?」
「あいつ、俺の事散々コケにしやがって。俺はカナちゃんに見合う男じゃないっ、自分こそがカナちゃんの恋人に相応しいんだなんて事を偉そうに。……でも俺はっ! ……!?」
「そ、う。彼が――そんな事を」
健人の話を聞いた叶子は、焦点の合わない目で口元を緩めている。その話を聞き、諦めかけていた気持ちにまるで希望の光が差し込んだような恍惚とした表情を浮かべていた。
まるで、二人の仲を修復させるような事を言ってしまった健人は当然面白くない。
「っ!!」
「えっ? な、何?」
思わずカッとなり、ビルの隙間にある路地裏に叶子を連れ込んだ。
そのまま叶子を壁に押し付けると、大きな掌ではすっぽりと隠れてしまいそうな叶子の顔を両手で掴み、黙れと言わんばかりに無理矢理彼女の口唇を自らの口で塞いだ。


