運命の人

 エレベーターの扉が開き、ズボンのポケットに両手を突っ込んだジャックが、その箱の中から飛び出すようにして出てきた。すれ違いざまに頭を下げる社員達に目も暮れず、早く一人になりたくて足早に廊下を進む。

「――。」

 健人と初めて会ったあの日の事を思い出す。健人と共に居た叶子の姿はジャックの目から見てもとても楽しそうに見えた。
 あの時、叶子は自分の恋人なのだと牽制はしたものの、あれ程にも自然な彼女の笑顔を引き出せる健人という人物への興味から、担当を健人に変えただけだったが、後にそれが嫉妬であったのだと知る。やる事が子供染みているとは思ったが、担当を健人に変える事で自分の方が優位にあるのだと知らしめたかった。どうあがいても自分のライバルにするには分不相応なのだと言う事を、身をもって判らせるつもりだった。
 しかし、健人を思う存分こき下ろす事によって、健人がジャックの脅威になっているのだと自分の心の中にある感情を映し出す結果となり、その事実がジャックに大きな打撃を与えた。

 長い廊下の角を曲がり、社長室へと向かう。部屋の前にある社長付秘書専用デスクに座っていたジュディスは、打ち合わせから戻ってきたジャックに声をかけた。

「社長、明日の定例会の資料ですが――」
「悪い、ジュディス。後にしてくれると助かる」

 ジャックはニッコリと微笑むと、社長室の扉に手を掛けた。

「え? あ、はい。かしこまりました」

 いつもであれば、仕事の話になるとどんなに忙しくても立ち止まって話を聞くジャックだが、今日はジュディスの言葉に被せるようにそう言った。仕事の鬼と呼ばれるほど何よりも仕事を優先させる彼だったが、返ってきた想定外の言葉にジュディスは目を丸くしつつも再び腰を下ろした。

 ジャックは後ろ手でドアを閉めると、ドサッとソファーの背もたれに背中を預けるように座り天井を仰いだ。もやもやとした感情が纏わりつき、それがいつまでもジャックを苦しめていた。

 ――『つ、つまり、あんたみたいなお高い人間と一緒に居るよか、俺みたいな同じ視線でモノを見れる……って言うか。と、兎に角っ! 砕けた付き合いが出来る男の方が良いに決まってるって事だよ! この間だって見ただろ!? 彼女の心底楽しそうなあの笑顔!』

「……。」

 健人の言った言葉がずっと頭に残り、思い出すだけでたまらず吐き気を覚える。苦し紛れに言った台詞なのだろうという事はジャックも流石にわかってはいたが、彼はその言葉に思いのほかダメージを受けてしまっていた。
 健人の言った通り、あの日、ジャックが目撃した叶子の楽しそうな笑顔を見て、頭を打ち砕かれた様な感覚に陥ったのは確かだ。

 ――『カナちゃんはあんたと別れたって言ってたよ!』

「そ、んな」

 天井を見上げていた顔を両手で塞ぐと、何度も叶子の名を呼んだ。


 ◇◆◇

 ジャックと最後に会ってから早や五日が過ぎようとしていた。あれから彼からの連絡は一切無い。あの日、ジャックが何を考えているのかが判らなくなり、思わず逃げるようにして彼の元を去ってしまったが、叶子はその事を後悔し始めていた。
 一日、また一日を終える度、彼の事だからきっと何も無かったかのように連絡をしてくるのではと、甘い考えを抱いていた自分を責めた。

 ──今、彼はどんな気持ちでいるのだろう。

 叶子の周りはいつになく静かだ。結局の所、絵里香の言う通り藍子もそして彼女も良い様に弄ばれたのであろうか。そう思いたくは無いのに今の現状を考えるとそう思わざるを得なくなる。
 ジャックと連絡が途絶えたばかりか、健人も彼と打ち合わせで会って以来、叶子の周りをうろつくのをピタッとやめた。
 藍子は例の如くどうやら一週間の休みを“取らされて”いるのか、最近職場で顔を見ていない。

 これで彼と出会う前の生活に戻った。また、今まで通り平凡な毎日を繰り返すだけ。

「───。」

 ――『カナ、こっちへおいで』

 目を閉じると、両手を広げて微笑んでいるジャックの顔が浮ぶ。

 ――『カナ、愛してるよ』

 伏せられた長い睫毛が次第に距離を詰めてくる。

「ち、がう」

 全ては幻想の世界だったのだと自分に言い聞かせ、耳を両手で塞ぎ頭を振った。


 ◇◆◇

 ~二週間後~

「おや? 坊っちゃん、またこんな所で。もう春といえどもまだまだ夜は冷えますぞ」
「ああ、うん」

 漆黒の夜空に浮ぶ綺麗な月を仰ぎ見ながら、ジャックは大きな溜息をついた。

「最近カナさんをお見かけしませんが、どうされたのですか?」

 その名前を聞いてピクッと彼の肩が小さく反応する。

「グレースは良く見ているね」
「ほほ。毎日真っ直ぐ会社から帰宅なさって、いつも家で食事されてるのを見れば誰でも判りますよ」

 月を見上げていたジャックはグレースへと向き直ると、手すりにもたれかかるように肘をついた。

「しばらく会わないようになって、色々と気付いた事があるよ」
「と、いうと?」
「僕はね彼女を疑っていたんだ。誰か他に男がいるんじゃないかと思ってね。それを問いただすと彼女は否定したのに、僕は彼女の話を聞こうとはしなかった。どうやら僕の事も疑っていた彼女はその事で僕を信じられなくなったみたいだ」
「ほほ。相思相愛ですな」

 相思相愛。その言葉を聞いたジャックは大きな溜息をまた一つ吐き、眉間に深い皺を刻み込んだ。

「もう随分連絡も取っていないんだよ。落ち着いたらきっと彼女から電話してくれるって思ってね。……でもその自信も最近は無くなってきたなぁ」
「ご自分から会いに行けばよろしいのでは?」

 また、グレースに背を向け腕を組んで手すりに肘をつくと、もう一度空を見上げた。

「それが簡単に出来ればどれだけ楽か」
「坊っちゃんらしくありませんね」
「……。」
「人は会わなくなるとだんだんそれが普通に思えてくるものです。ご自分から距離を置かれて何が伝わるのですか? 何度も話し合って人はお互いを知っていくものです。この際、今坊ちゃんが思っている事を洗いざらい話してしまったらどうでしょう。それで嫌われたら、またその時考えればいい事じゃありませんか」

 ゆっくりジャックが振り返ると、ニコニコといつもの笑顔でグレースは微笑んでいた。
 どうしていいのか判らなくなっている自分の背中を、いつもグレースは優しく押してくれる。その手はとても暖かく、愛情に包まれているのだ。
 グレースのこの言葉でジャックはもう少し頑張ってみようかと思い改めた。

「ただ――」
「?」

「坊っちゃんは幾分度が過ぎる所がありますので、努めて冷静にお話された方がいいかもしれませんね」

 そう言うと、グレースは舌をペロッと出してウィンクをした。その仕草に曇っていたジャックの顔に少し笑顔が戻る。

「酷いなぁ。……でも有難う。もう少し頑張って見るよ」

 この日を境にジャックの溜息は徐々に減り、夜に月を見上げる事も次第に無くなっていった。