「んーっ! ……っ、はぁー」

 デッキに出て大きく深呼吸する。朝露に濡れた草木の香りが充満していて、何とも気持ちが癒される。小鳥の囀っている声が聞こえ、今まさに大自然の中にいるのだという事を叶子は肌で感じていた。

 ピーッピーという機械的な音が部屋の中から聞こえ、それによってご飯が炊けたのだと知る。後ろを振り返ってみると、部屋の中にはボサボサ頭のジャックがソファーで足を組みふてくされた顔で新聞を読んでいて、つい先程のやり取りを思い出すとおかしくて又笑ってしまった。

 部屋の中に入り、彼が読んでいる新聞を見れば上下さかさまになっているのがわかった。叶子はそれを取り上げるとくるりと上下を返し、『はい』と言いながらもう一度彼の手に新聞を戻す。ムッとした顔で見上げるジャック視線に対し、叶子は余裕の笑みを浮かべた。

「朝食の準備するね」
「……お願いします」

 不機嫌そうに口を尖らせながら彼はボソッと呟くと、再び新聞に目を向けた。


 ◇◆◇

 キッチンで朝食の準備をしていると、ドタドタドタとまるで転げ落ちるかの様な勢いで階段を駆け降りて来る音が聞こえる。リビングの扉が勢い良く開き、血相を変えたジャックが部屋の中をぐるりと見回しすぐに叶子を見つけた。

「あ、おはよう。朝は和食でも──」
「カナ! どうして起こしてくれなかったの!?」

 叶子が話し終わるのを待たずしてジャックが言葉を被せる。そんなジャックの形相はまさに顔面蒼白とも、もうこの世の終りだとも言えそうな顔をしていた。

「え? あんまり気持ち良さそうにすやすやと寝ていたから、起こすの悪いなと思って。朝食の準備が出来たら起こせばいいかな、と」

 本当はそういう事を聞きたかったのでは無いと言う事くらい、流石の叶子でも大方予想はついていたが、あえて的外れな返事をするとほんのり頬を赤らめながらジャックが慌てて否定した。

「そ、そうじゃなくて!! ……き、昨日の晩の事だよっ」

 あまりに真剣な表情の彼がおかしくてつい噴出してしまう。そんな叶子をジャックは気に食わないのか、片方の眉がクイッと上がった。

「ご、ごめんなさい、……えと、さっきと同じよ。凄く気持ち良さそうに眠ってたから起こすのが可愛そうだなって思って」
「……うあああぁぁー、僕はなんで寝てしまったんだー」
「疲れてたんだから仕方ないよ」

 ジャックはキッチンのカウンターに両肘をつき、頭を抱え込みながら自分が犯してしまった失態を恥じている。
 そんなジャックとは相反し、叶子は笑いをこらえるのに必死だった。

「――。……? きゃっ!」

 ガバッと勢い良くジャックが上体を起こしたと思うとすぐに叶子の腰に両手を回し、グッと引き寄せた。バランスを崩した叶子は、あっさりジャックの胸板に顔が埋まる。

「今から……続きを……」

 先程までの焦った様子だったのが打って変わり、今は甘顔に変化している。胸の中で自分を見上げながら目を丸くしている叶子に対してそう言うと、叶子の首筋に顔を近づけてきた。

「え? あ、や……っ」

 幾らなんでもこんな朝っぱらからコトを致すなんてご先祖様達に顔向け出来ない。叶子は慌てて身体を反らすと両手でジャックの胸を押し返した。

「ち、ちょっと待って、こんな朝早くから昨夜(ゆうべ)の続きだなんて……」

 火照りそうになった頬を隠すようにして顔を俯かせると、下から覗き込むようにしてジャックの顔が現れた。目と鼻の先に顔を近づけてきたジャックの目はどこか血走っていて、必死な感じが伝わって来る。

「じゃあ、夜ならいいの?」
「夜って。……今日はもう帰らなきゃ」
「もう一泊する!」

 まるで小さな子供が駄々をこねてお母さんを困らせているかの様だ。途中で寝てしまったのがよっぽど悔しかったのか、あんなに仕事に一途な彼がそれをほっぽってでも何とかして続きがしたいのだと言っている。

「し、仕事があるでしょ?」

 笑いをこらえている叶子とは対照的に、ジャックは悔しそうな顔をして肩を落とし頭を項垂れていた。そんなジャックが可愛くて、いとおしくてつい触れたくなる。
 ジャックの頬にそっと手をあてると、叶子の方から触れるだけの短いキスをした。

「じゃあ、はじめからやり直しね」
「え?」
「おはよう」

 そう言って叶子がニッコリと微笑むと、無茶な事を言って彼女を困らせてしまった事に気付いたのか、ジャックは少し照れくさそうにしながら『おはよう……』と、やっと落ち着いて朝の挨拶をした。

「はい、じゃあ座って待ってて?」
「はーい」

 上手くまとめられた感が否めない。
 今のやりとりだけを見るとどっちが年上なのかも判らない程立場が逆転している。その事にジャックは気付かないまま、ソファーにドサッと腰を下ろした。


 ◇◆◇

 楽しかった時はあっという間に過ぎ去り、次にやって来るのは別れの寂しさだけ。
 二人は最終列車に飛び乗ると、あっという間に車窓から見える雪景色は姿を消した。

 停車する度にプラットホームを見れば徐々に人が多くなっていくのが判る。
 それは二人の別れが近くなっていると言う事を意味するものであった。

 叶子の家の最寄り駅に到着すると、二人は手を繋ぎながらトボトボと歩き出す。気付けば会話も無くなっていて、普段は歩くのが早いジャックも心なしか随分足取りが重くなっている。

「ねぇ、次いつ逢える?」

 叶子からこんな台詞を言ったのはこれが初めてだった。
 彼の重荷になりたくないと思うがばかりに今までは中々言えなかった言葉だったが、昨日、今日と一緒に過ごした時間が楽しすぎたせいで、これから訪れる別れを肌で感じてしまうと又今度会えるという確約が欲しくなる。
 たった一言でいいから近い未来の約束を取り付けたかった。
 それがもし不可能になったとしても、今この寂しさを埋める為の保証が欲しかった。

「んー、正直わからないなぁー」
「そ、う」

 そんな叶子の思いも虚しく『わからない』の一言で片付けられてしまい、酷く動揺した。

「──?」

 ジャックの携帯電話が鳴る音が、現実の世界に戻ってきた事を知らせている。

「ちょっとごめんね」

 胸のポケットから電話を探り当てると、叶子に一言詫びてその電話に出た。

「うん、そう。……ああ、いいよ。うん、じゃあよろしく」

 片手で携帯電話をパタンと閉じ、何か考え事をしているかの様な面持ちで胸ポケットにしまった。

「……? ああ、ビルからだよ。道が混んでて少し遅れるって」
「そう」

 横目に叶子の視線を感じたのか、訊ねてもないのにわざわざ話した内容を説明した。

 いつものように部屋の前までジャックが送ってくれる。叶子がドアの内側に入りドアノブに手を掛けながら彼を見上げた。

「じゃあ、また。電話……待ってる……?」
「うん。電話する」

 扉を閉めようとした時、ジャックがとても悲しそうな表情を浮かべているのを感じながらもそのドアを閉じた。

 ジャックが立ち去る靴音が聞こえない。玄関の鍵が閉まる音も聞こえない。
 1枚のドアを隔てて二人はじっと佇んでいるのがわかる。

 すぐにでもこの扉を開けてジャックに抱きつきたい衝動に駆られながらも、引き止めてしまう事を恐れてしまう。 
 明日からお互い仕事が始まる。叶子の仕事はなんとでもなるが、きっと彼は明日からまた怒涛の毎日を暫く過ごさなければならないのだろう事は、先程の彼の口振りで良く判った。

 ──きっと、又当分会えなくなる。

 次に会う約束が無いと言う事がこれほどまでに自分の気持ちを不安定にさせるとは思ってもおらず、苦しくて悲鳴を上げている胸をぎゅっと掴んで口唇を噛み締めた。

 ──コツンッ、

「!」

 その靴音にハッとした。
 離れたくないという気持ちが一気に溢れ出し、次に叶子の思考を停止させた。

 考える事を放棄した叶子は勢い良く扉を開けると、驚いて半身振り返ったジャックの胸ぐらを掴みそのまま扉の中へと引きずり込んだ。