「送って下さって、ありがとうございました」
「うん。──じゃあ、おやすみ」

 玄関の扉を閉めようと叶子がノブに手をかけた時、彼が忘れ物をしたかの様な顔をした。
 一歩前に出て扉が閉まるのを片手で防ぐと、叶子の首の後ろに手を伸ばし顔を傾け距離を狭める。

「……っ」

 重なりあった口唇はまるで別れを惜しむかのようにゆっくりと離れ、伏せていた瞼をゆっくりと上げると少し照れた様な顔をして彼は微笑んでいた。

「じゃあ、……また電話する」
「は、い」

 扉がピッタリと閉まったのを見届けてから、ジャックはいつも帰って行く。叶子もドアの側で息を潜め、彼の靴音が小さくなっていくのを聞いてから部屋の中へと入った。

 ジャックの家に行っても叶子が嫌がる事は何もしない、との約束をちゃんと守ってくれた彼に安心感を覚える。無茶な注文だと叶子も良く分かってはいたが、そんな叶子の気持ちもジャックは理解してくれている様だった。
 彼と過ごす時間はとても楽しいせいか、一人になった瞬間に一気に孤独に襲われる。決して広いとは言えない1LDKの部屋にペタリと座り込んだと同時に、まるで魔法が解けたかのように寂しさいっぱいになる。今まで一人で居る時間の方が長かったというのに、いつの間にか自分の心の中はたっぷりと彼の愛情で満たされてしまっていて、一人で過ごす時間が辛い。たった今別れた所だと言うのにもう逢いたい気持ちがどこからか沸いてきて、胸の前で手を組み瞼を閉じれば、彼の笑顔ばかりが自然と浮かび上がる程だった。
 まるで初めて恋をしている少女の様に、叶子は胸をときめかせていた。



 ◇◆◇

「お待たせビル。いつも遅くまでつき合わせちゃってすまないね」

 車内の時計を見ると、もう既に夜中の三時を過ぎている。その現実にジャックは思わず目を逸らした。

「いや、俺はこれが仕事だし時間に余裕があるから別にいいんだが、ジャックの方がキツイだろ?」
「うーん、確かに結構キツイけど……。かと言って会えなくなるのはもっとキツイよね」

 走り出した車の窓の外を眺めながら、肩を少し上げると眉をひそめて苦笑いを浮かべた。

「──。」

 昼間に見るのとは全く違う外の景色を瞬きもせず見つめながら、持って行き場の無い感情が歯痒くて親指の爪を噛んだ。


 ◇◆◇

 オフィスのドアに入る直前、眠い目をこすったと同時に大きな欠伸が飛び出した。

「でっかいあくび」

 手で口元を覆って目を赤くしている叶子に、タイミングがいいのか悪いのか、健人が声を掛けてきた。

「……おはよう」
「凄い不細工な顔してたよ」
「うるさいなぁ……。てか、ここ会社なんだけど? 敬語使ってないじゃない」
「もう止めた。カナちゃんにはね」
「……。」

 ついこの間エレベーターの中でとんでもない事をしでかしたくせに、との意味合いも込めてギロリと睨み付けながらオフィスの扉を開けた。

「……?」

 何故か皆の視線が入り口で立っている叶子に集まる。
 いつもと違う雰囲気に少し息が詰まりながらも、席に着こうとする叶子を見つけたボスが慌てて飛んできた。

「ああ、ちょっとカナちゃん。こっち来てくれる?」
「はい?」

 誘導されるままにボスと会議室へと入ると、とりあえず座るように促された。膝に肘をつく様にして対面にボスが座ると、はぁーっと大きな溜息をつき、その様子からして何処から話をすればいいのやらと迷っている感じであった。
 いつもと違うボスの態度に、少なからず違和感を感じた。

「あ~、あのさ」

 叶子の顔を見ようともせず、ボスはそっぽを向いたままで硬く握った拳をもう一方の手に殴りつけながら、その重い口を開いた。

「はい、何でしょう?」
「こんな事言うの、正直馬鹿らしいんだけど……。君とあの社長との事について色々噂が飛び交っていてね」
「噂……ですか?」

 ボスは口ごもり話しにくそうにしている。

「うん。その、……君があの社長と、その、関係を持って仕事を取った……みたいなね」
「関係?」
「あー、‟枕営業”的な?」
「はぁっ!? あ、ありえません! なんですかそれ!」

 ボスのその言葉で、先ほど感じた皆の視線の意味を理解した。

「そんな返事が返って来るとは思っていたけど、部下の管理も俺の仕事だから噂が立ってしまった以上は一応確認しないといけなくてな」
「はぁ」
「まぁ、とにかく。相手の会社は外資だからそんな事気にもしないだろうけど、うちは純国産中小企業だからね。そういった所にはとても敏感なんだよ」

(何処からそんな噂が? 昨日会社の前で抱きしめられたのを誰かが見てた? にしてもたったそれだけで枕営業してるだなんて……。話が飛躍し過ぎだよ!)

 悔しさの、膝の上に重ねた手をぎゅっと握り締めた。

「――て事で、すまないけど」
「はい。……判りました」


 ◇◆◇

 会議室から出ると又、皆がこっちを見てヒソヒソと小声で話していた。その光景にうんざりしながら席に着く。

「(……らしいよ)」
「(えーー? 本当に!?)」

 何処からともなく聞こえて来るひそひそ話に怒り心頭になる。そんな話は根も葉もない単なるくだらない噂だと、大声を上げて怒鳴りつけたい心境に陥った。
 確かに、今となっては彼と恋人同士ではあるが、それを餌にして仕事を取ったわけではない。女としての価値はそこまで無いのだと、自虐めいた言葉がぐるぐると頭を駆け巡った。
 でも、きっと彼女が何かを言っても誰も信じてはくれないだろう。
 そう思うと無駄な努力をするよりも黙り続ける事を選び、グッと奥歯を噛み締めた。

「あ~やだやだ。これだから女って嫌なんだよな~」

 オフィス内にピーンと張り詰めた空気が漂う。叶子を庇う様にそう話し出したのは、他でも無いあの健人だった。
 手にした書類をバンッと大きな音を立ててデスクに叩き付け、

「くっだらね~」

 そう言って一蹴すると、切れ長の目で皆をギロッと睨みつけた。

 社内で人気者の彼が嫌われ役を買って出た。ヒソヒソと陰口を叩いていた輩はパラパラと散り始め、その事によりやっと叶子に平穏が訪れたのだった。

「──。」

 面白くなさそうに少し口を尖らせている健人に、叶子は心の中で『ありがとう』と感謝の言葉を呟いた。