冬の夜空は空気が澄んでいて、濃紺の空に月が良く映える。時折かかる雲が月の形を変えていく様を見ながら、肩で大きく溜息をついた。
「……はぁ」
バルコニーの手すりに両肘をつき、一人もの思いに耽っていた。扉が開く音が聞こえジャックが振り返ると、グレースが大きなブランケットを持って現れた。扉が開いたことで甘い香りが室内から流れ出し、ジャックの鼻がクンと鳴った。
「こんな所にいるとお身体が冷えますぞ」
グレースはブランケットを広げると、うんと背伸びをして彼の肩にそれをかけた。
「グレース、この香りは何?」
「ああ、これはチョコレートですよ。明日はバレンタインデーですからね、皆こぞって作っているのですよ」
「ああ……。なるほど」
バレンタインデー。その言葉を聞いて、彼の溜息が又大きく零れる。
昨日、ランチタイムに彼女を待ち伏せ半ば強制的に連れ出した。『仕事を餌にしている』と言われても仕方がない程、強引だったかもしれない。正直、叶子に拒絶された事で、ジャックの心の中は酷く動揺していた。
本当は、あの時叶子が許してくれるまで彼女を帰すつもりは無かった。怒鳴られても、殴られたとしても、ちゃんと自分の気持ちは彼女にしか向いていないのだと言う事を、何としてでも判って欲しかった。でも、膝の上で両手をギュッと握り締めながら、悔しそうな面持ちで放ったその言葉を聞いて、ジャックは何も言う事が出来なくなった。
当初は叶子と二人で食事をするつもりだったのだが、彼女の様子を見ているととてもそんな事は言えず、車から降りる時こっそりビルに同席してもらうように頼んだ。『やれやれ、ジャックともあろう者が一体何をビビッてんだ?』とでも言いた気な顔をしていたのを、良く覚えている。
(そうだな。僕はあの時ビビッていたのかも)
叶子にこれ以上嫌われたく無いが為に言いたい事をぐっと我慢し、余計な事を考えないように仕事の話に没頭した。だが、悲しいかな、彼女は仕事の話しかしないジャックに、二人っきりで会うのでは無く、第三者が居るということに、――少なからず安心していた。
その事によって“ジャック”と言う人間は完全に否定されたのだと思い知ってしまった。
「はぁー」
又、ひとりでに溜息が零れる。何も知らないグレースはジャックの落ち込み様がどうにも気に掛かるのか、恐らくジャックが今一番聞かれたくないであろう話題を彼に振った。
「坊ちゃんは明日のお食事は外で済まされるのですか?」
「意地悪だなぁ、もう。予定なんか無いよ」
「そうですか。私はいつだったか来られた方とてっきり」
「彼女はそんな簡単なもんじゃないんだよ」
ジャックの肩に掛かっていたブランケットを取り、それをグレースの肩にかけ直す。その行為がグレースにはまるで、自分の話を聞いて欲しいと言っている様に思えたのだった。
「かわいらしいお嬢さんでしたが、何かこう1本筋が通っていると言いますか、芯の強そうな感じがしましたなぁ」
「そうなんだよ。その芯が強過ぎるのが悩みの種なんだ。あんな子初めてだよ」
口に出して叶子の話しをする事で、しかめっ面の彼女の顔が頭の中に浮かび、思わず肩をすくめて苦笑いが出る。
「ほほほ。珍しく坊ちゃんが弱気で」
「自分の気持ちを前面に出すと相手を怒らせてしまうから、気持ちを隠すのに苦労するよ」
「それは、坊ちゃんにとっては辛い試練ですなぁ」
「もう苦しくてどうしていいのかわからないんだ。僕が何か行動を起こそうとすると、どんどん離れて行っちゃう」
思い出して目頭を熱くしながら、それをグレースに気付かれまいと月を眺めている。いい歳をして女性の扱いが判らない自分が酷く惨めに思え、もう諦めた方がいいのかも、と、気付けば楽になる為の道を選ぼうとしていた。
そんな弱々しいジャックの様子に見かねたグレースは、まるで本当の母の様にやさしく声を掛けた。
「坊ちゃん、神は乗り越えられる試練しか与えません。勇気を持って自分の信じた道をお行きなさい」
逃げようとしている自分の背中をグレースが押してくれる。必ずしもその道は楽とは言えず険しい道だと判っていても、恐れずに進めと言ってくれる。
本当は誰かにこう言って欲しかったのだろうとジャックは思った。その証拠に、胸に支えていた苦しいモノがスッと楽になった気がした。
「グレース、――ありがとう」
にっこりとグレースは優しく微笑んだ。グレースから見れば、ジャックはまだまだ子供。泣きべそかいている姿は40年前と全く変わらない。
今は彼の子供の世話をしているが、まだまだ彼のお世話も必要だと感じると、少しほっとしていた。
「さぁさぁ、ココは寒うございますからどうぞ中へ」
グレースの後をついて再び扉を開け部屋の中へと入ると、まだ甘い香りが部屋中に漂っていた。ジャックはふと何かを思いついた様な表情を浮かべ、先を行くグレースを呼び止めた。
「グレース、材料まだ余ってる?」
「ほ?」
急に笑顔になったジャックは嬉しそうにグレースの背中を両手で押し、まるで小さな子供がはしゃぐようにキッチンへと向かっていった。
「……はぁ」
バルコニーの手すりに両肘をつき、一人もの思いに耽っていた。扉が開く音が聞こえジャックが振り返ると、グレースが大きなブランケットを持って現れた。扉が開いたことで甘い香りが室内から流れ出し、ジャックの鼻がクンと鳴った。
「こんな所にいるとお身体が冷えますぞ」
グレースはブランケットを広げると、うんと背伸びをして彼の肩にそれをかけた。
「グレース、この香りは何?」
「ああ、これはチョコレートですよ。明日はバレンタインデーですからね、皆こぞって作っているのですよ」
「ああ……。なるほど」
バレンタインデー。その言葉を聞いて、彼の溜息が又大きく零れる。
昨日、ランチタイムに彼女を待ち伏せ半ば強制的に連れ出した。『仕事を餌にしている』と言われても仕方がない程、強引だったかもしれない。正直、叶子に拒絶された事で、ジャックの心の中は酷く動揺していた。
本当は、あの時叶子が許してくれるまで彼女を帰すつもりは無かった。怒鳴られても、殴られたとしても、ちゃんと自分の気持ちは彼女にしか向いていないのだと言う事を、何としてでも判って欲しかった。でも、膝の上で両手をギュッと握り締めながら、悔しそうな面持ちで放ったその言葉を聞いて、ジャックは何も言う事が出来なくなった。
当初は叶子と二人で食事をするつもりだったのだが、彼女の様子を見ているととてもそんな事は言えず、車から降りる時こっそりビルに同席してもらうように頼んだ。『やれやれ、ジャックともあろう者が一体何をビビッてんだ?』とでも言いた気な顔をしていたのを、良く覚えている。
(そうだな。僕はあの時ビビッていたのかも)
叶子にこれ以上嫌われたく無いが為に言いたい事をぐっと我慢し、余計な事を考えないように仕事の話に没頭した。だが、悲しいかな、彼女は仕事の話しかしないジャックに、二人っきりで会うのでは無く、第三者が居るということに、――少なからず安心していた。
その事によって“ジャック”と言う人間は完全に否定されたのだと思い知ってしまった。
「はぁー」
又、ひとりでに溜息が零れる。何も知らないグレースはジャックの落ち込み様がどうにも気に掛かるのか、恐らくジャックが今一番聞かれたくないであろう話題を彼に振った。
「坊ちゃんは明日のお食事は外で済まされるのですか?」
「意地悪だなぁ、もう。予定なんか無いよ」
「そうですか。私はいつだったか来られた方とてっきり」
「彼女はそんな簡単なもんじゃないんだよ」
ジャックの肩に掛かっていたブランケットを取り、それをグレースの肩にかけ直す。その行為がグレースにはまるで、自分の話を聞いて欲しいと言っている様に思えたのだった。
「かわいらしいお嬢さんでしたが、何かこう1本筋が通っていると言いますか、芯の強そうな感じがしましたなぁ」
「そうなんだよ。その芯が強過ぎるのが悩みの種なんだ。あんな子初めてだよ」
口に出して叶子の話しをする事で、しかめっ面の彼女の顔が頭の中に浮かび、思わず肩をすくめて苦笑いが出る。
「ほほほ。珍しく坊ちゃんが弱気で」
「自分の気持ちを前面に出すと相手を怒らせてしまうから、気持ちを隠すのに苦労するよ」
「それは、坊ちゃんにとっては辛い試練ですなぁ」
「もう苦しくてどうしていいのかわからないんだ。僕が何か行動を起こそうとすると、どんどん離れて行っちゃう」
思い出して目頭を熱くしながら、それをグレースに気付かれまいと月を眺めている。いい歳をして女性の扱いが判らない自分が酷く惨めに思え、もう諦めた方がいいのかも、と、気付けば楽になる為の道を選ぼうとしていた。
そんな弱々しいジャックの様子に見かねたグレースは、まるで本当の母の様にやさしく声を掛けた。
「坊ちゃん、神は乗り越えられる試練しか与えません。勇気を持って自分の信じた道をお行きなさい」
逃げようとしている自分の背中をグレースが押してくれる。必ずしもその道は楽とは言えず険しい道だと判っていても、恐れずに進めと言ってくれる。
本当は誰かにこう言って欲しかったのだろうとジャックは思った。その証拠に、胸に支えていた苦しいモノがスッと楽になった気がした。
「グレース、――ありがとう」
にっこりとグレースは優しく微笑んだ。グレースから見れば、ジャックはまだまだ子供。泣きべそかいている姿は40年前と全く変わらない。
今は彼の子供の世話をしているが、まだまだ彼のお世話も必要だと感じると、少しほっとしていた。
「さぁさぁ、ココは寒うございますからどうぞ中へ」
グレースの後をついて再び扉を開け部屋の中へと入ると、まだ甘い香りが部屋中に漂っていた。ジャックはふと何かを思いついた様な表情を浮かべ、先を行くグレースを呼び止めた。
「グレース、材料まだ余ってる?」
「ほ?」
急に笑顔になったジャックは嬉しそうにグレースの背中を両手で押し、まるで小さな子供がはしゃぐようにキッチンへと向かっていった。


