運命の人

 玄関の扉を開けると部屋の明かりもつけず、持っていた荷物を部屋の中央にばら撒きながらわき目も振らずベッドへと直行した。
 倒れこむように冷たいシーツにその身を委ねると、そばにある枕を抱え込んで仰向けになる。ゆっくりと目を閉じて、昼間、彼と会った時のことを思い返していた。


 ◇◆◇

 おいしいカレー屋さんがあると言い、どこかのチェーン店でも連れて行かれるのかと思いきや、小洒落た本格インド料理専門店の駐車場に二人を乗せた車が停車した。頭にターバンを巻いた男性やサリーを纏った女性スタッフにも英語でにこやかに挨拶を交わす彼は、どうやらこの店でも常連の様だった。
 椅子を引いてくれたり、コートを脱がせてくれたりと店の従業員よりも気が利いている。メニューを見てもさっぱりわけのわからない叶子に、ちゃんと辛くないものをチョイスしてくれて、食後には言わずともチャイティーをオーダーしてくれる。
 ジャックの徹底した紳士っぷりに叶子は脱帽した。

 今回は彼と彼の運転手のビルも一緒に食事を楽しんだ。そして、驚いた事に会話の内容は本当に仕事の話“だけ”だった。この話が舞い込んだのは急だったため、彼の会社がどんな会社か全く予備知識を入れていなかった叶子は、この時改めて彼がどういう仕事をしているのかを知る。

 コンサートやイベントなどのプロモーションや、大型のコンサートホールの運営を取り仕切って居る会社の代表取締役社長で、主に音楽プロモーターとして世界中を飛び回っているそうだ。
 更に完璧を求める彼は、作詞、作曲、プロデュース業はもちろんアーティストのボイストレーナーまでこなしてしまう程、入れ込んだアーティストには全て関わらないと気がすまないらしい。今回、彼が手がけるアーティストの新しいアルバムのジャケットにもこだわっていて、叶子の仕上げた作品が思っていた通りの作品で驚いたと言っていた。

 ジャックは音楽だけではなく芸術や世界情勢についても良く知っていた。終始圧倒されっぱなしで彼の博識さに目を丸くしている彼女とは対照的に、隣に座っていたビルは『また始まった』と言わんばかりの顔で肩をすくめていて、二人の妙な温度差を感じた。

 話題が変わり、今度は叶子の作品について彼が触れる。

『君は何にインスパイアされてあの作品を思いついたの?』
『普段はどういった種類の作品を作っているの?』
『君は素晴らしいアーティストだよ』

 と絶賛してくれた。それに関しては何故かビルもうんうんと頭を上下していて、見てもいないくせに、と思わず眉間に皺を寄せてビルに視線をやれば、ビルは舌をぺロッと出して真剣な表情の彼の横でおどけていた。

 自分のやった事を認めてもらえて正直嬉しかった。今まで、どんなに手の込んだデザインを作っても、『よっぽど暇だったんだね』とか、『残業つけてないだろうね?』と、冷たい視線を向けられる事の方が多かった。それでも、気付いて貰えるだけましな方で、ほとんどが、気付かれずスルーされていたのだ。

 ――もっと話を聞きたくなった。
 気付けば張っていた警戒線はあっという間に解除され、どんどん彼の世界に引き込まれていく。
 確かに、自分は彼に酷く傷つけられた。もうあんな思いをするのは二度とご免だし、叶子の記憶から消し去る事はきっと出来ないだろう。しかし、ビジネスパートナーとしての彼は申し分無い程の逸材で、自分のいい所をもっと引き出してくれそうな、それでいて、色んな事を彼から吸収出来るような……。そう思うと、私情を挟んで突っぱねようとしてるのは、自分の方じゃないかという事に気付かされてしまった。

 夢中で話している彼を余所に、もうランチタイムは終わりだとビルが自分のしている腕時計を彼に見せつけ、人差し指で文字盤をトントントンと3回叩いた。あっという間に時が過ぎていた事に、叶子自身も驚きを隠せない。

 惜しむように店を後にし、帰りの車中で初めて仕事以外の話を彼が口にする。
 あの日、彼に何があったのかは教えてもらえなかったが、とにかく精神的に追い詰められていて、全てから逃げていた。あの後、冷静になってから自分のした事の愚かさに気付いただのと。すぐに謝りたかったが、話を聞いて貰えるだろうかと不安で仕方なかった。そうしている内に、海外へ長期出張する事になり、ハードスケジュールと時差の関係で連絡する余裕が無かったのだと、彼は心から詫びていた。

『君の事は一時も忘れた事はないよ』

 閉ざしていた心の扉が、徐々に開いていくのを感じる。
 それは彼が持っている“鍵”によって開かれていくのだった。