運命の人

 健人に抱きしめられてから1週間程時が過ぎた。叶子を抱き締めたからといって別段変わった様子も無く、いつも通りの軽いノリで叶子に接していた。

「カナちゃん、毎日毎日遅くまで頑張りすぎてるからお肌くすんでるじゃないスか。ちゃんとお手入れしなきゃー。せっかく可愛い顔してるのに、勿体無いですよ」

 まるで人を小馬鹿にする事を楽しんでいるかの様なその態度。8歳も年下の健人に『可愛い顔』と言われると、褒められていると言うより舐められているという感情が先に立つ。

「五月蝿いな。ほっといてよ」

 わざわざ隣の島から叶子のデスクに来たかと思えばそんな事を言われてしまい、周囲からの失笑にも耳を貸さず、叶子は黙々と仕事を続けていた。

 叶子にとっては面倒臭い人物の一人でしかない健人だが、この会社のお局達に彼はとても人気なのが未だに理解できない事の一つであった。見え見えのお世辞だったとしても、普段誰にも言われる事の無い干乾びたお局様たちは、純真無垢な少女の様に頬を赤らめていたりするのだからたまらない。
 入社当時の健人はどちらかと言うと絡みにくいタイプという印象だったが、今ではそんな事など微塵も感じさせない程、皆に馴染んで居る。

(まぁ、3年目ともなると、少しは大人になるって事かしらね)

 そんな事を思いつつ、適当に健人をやり過ごしながら右手をヒラヒラとさせ、健人を自分の側から追い払った。


 ◇◆◇

 いつも通り黙々と仕事をしていると、ボスが慌てた顔をして叶子のところへやってきた。

「ちょ、ちょっとカナちゃん! このあいだのやってくれた仕事!」

 慌てたボスの様子に、『このあいだの仕事』がどの仕事を指して居るのかすぐにわかった。以前、誰もやろうとしなかったCDジャケットの作成依頼。自分の担当分野では無いのに、暇を持て余していた叶子はつい手を挙げ引き受けてしまった仕事だった。

「やっぱり良くなかったですか?」

 恐る恐る問うと、先程の慌てていたボスの表情が急に変わった。

「違うんだよ! 先方えらく気に入ってくれたらしくてね! 一度打ち合わせしたいって!」
「あ、そうでしたか。なら良かったです」

 ホッと胸を撫で下ろし、何とか“ベテラン”としての立場が守ることが出来たと安堵した。じゃあ、とデスクの上のやりかけの仕事に手をつけようと視線を手元に移すと、頭の上からまだ話は終わってないと言わんばかりに興奮した様子のボスの声が聞こえた。

「で、今から行くから君もすぐ用意して!」
「え? 私もですか? しかも今から?」
「そりゃそうだよ! これは君が仕上げたんだから」
「はぁ? でも、私は今からこれを……」

 手にした資料をボスに見せ、この仕事を優先したいのだとアピールした。
 今までの仕事の流れで言うと、ここから先はプランナーなりボスなりで話を進めるのが通常だった。自分はあくまでもデザイナーであって、クライアントと話を詰めるのはプランナーの仕事だというのに。
 少し不満そうに眉根を寄せた叶子の話を聞こうともせず、手にしている資料をもぎ取りそれを藍子に手渡した。そうされた事でボスに向かって不満をぶつけている藍子にも耳を貸さず『五分で用意して!』と言い残すと、ボスも又、自分の出かける準備をする為いそいそと自席へと戻って行った。

 慌てて飛び乗ったタクシーの中、ボスは何故か興奮しきりだった。それもその筈。今回のクライアントは自社にとってはかつてない大企業。今まで何度もチャンスを与えられてきたが、箸にも棒にも掛からなかったそうだ。
『まだこの仕事は決まった訳じゃない、ここからが勝負なんだ』と、叶子のモチベーションを上げるためか、相手先へと向かうタクシーの中、延々と熱く語られた。


 ◇◆◇

 タクシーが止まり、ここがその会社だと知らされる。
 周りのビルよりも一際高く聳(そび)え立つビル。都心に程近く一体幾ら払えばこんな場所にこれほど大きなビルが建てられるのだろう。と、先の見えないビルを地上から見上げていた。
 このビルに入って行く人達も皆、小綺麗に着飾っており、見るからに高そうな洋服を颯爽と着こなしている。ここで働く人達は自分とは別世界に住む人達なんだとまざまざと感じさせられた。

「?」

 敷地内に足を踏み入れてみて初めて気付いた事があった。このビルに入っている会社の案内板。上層階の半分以上を占めている、今から向かうクライアントの社名。

(どこかで見た名前……)

「――、……っ!」

 一気に胃がぎゅっと鷲掴みにされる様な感覚が叶子を襲った。コツコツと自信有りげに響いていたヒールの音も、次第に間隔が開き音も小さくなっていく。

(ここ、……彼の会社だ)

「ん? どうした、行くよ? ……はっはぁ~ん、流石のカナちゃんでも相手さんが立派過ぎて緊張してるのか?」
「いや、……はい」

 彼に会ったらどうしよう。もう周りが全く見えないくらい動揺する。ボスが横から何やら話しかけてくるが、もう叶子の耳には入ってこなかった。

 不安に押しつぶされそうになりながらもロビーに入ると、余りの人の多さに思わず胸を撫で下ろす。

(あぁ、そっか。こんなに大きな会社だったらそう簡単に会う事もないか)

 痛んでいた胃も楽になり、気持ちが落ち着いてくる。
 これは叶子にとって大きな仕事なのは確かで、ボスだけでなく彼女もこの仕事を何とかして取りたいと思える様になったからこそ、そう簡単に降りるわけには行かない。

(よしっ!)

 意気込にながらボスと一緒にエレベーターに乗り込んだ。


 ◇◆◇

「失礼します」

 打ち合わせ室に通されしばらくすると、担当者4人が室内に入ってきた。一通り挨拶を済ませボスを中心に話が進められる。しばらくして、ドアをノックする音とともに、女性が飲み物を持って中に入ってきた。

「どうぞ」

 カップを差し出してくれた女性に軽く会釈し、カップの中を何気なく覗き込む。黒い液体が波打って居るのが見えて、心の中で小さく溜息を吐いた。
 カップに一切口をつけることなく、ひたすら話に聞き入っている。役目を終えた先程の女性が部屋から出ようとドアノブに手を掛けた瞬間、勝手に扉が開いた事に女性は胸を押さえながら驚いている様子だった。

「失礼しました。……社長もご一緒なさるんですか?」

 女性が発したその言葉を聞いて、ピクリと彼女の顔が凍りつく。

「ああ、すごく興味があって。どんな人が作ったのか一度話してみたいと思ってね」

 甘い香りが部屋に流れ込み、優しい高音の声が響き渡る。
 彼女が恐る恐る顔を向けると、そこには少し伸びた髪を一つにまとめ、前髪をルーズに垂らした一人の男性の姿があった。

「――っ!」

 今一番会いたくなかったあの“彼”が現実にそこにいた。