罪語りて所在の月を見る



徒然草のある段には、不幸に愁(うれ)へに沈める人で始まるものがある。


不幸にあって悲嘆――罪を持った渉が不幸とはまた筋違いな気もするが、渉にはそのあとに続く文が興味深く、自身の身の振り方を鑑みるものとなった。


要約すれば、悲嘆にくれた人が割りきるために頭を剃って出家をするよりも、引きこもり日々になんら期待を持たずに暮らす人になりたいものだと、そんな訳の文章を渉は――『生きることを楽しまない方が、十分な罪滅ぼしだ』と受け取った。


ああ、確かにそうだろう。悲嘆にくれる人――罪を償いたいと思う人が、頭剃って出家するなんて、それはただの自己満足であり、責任逃れだ。


罪を犯したならば被害者が許すまで、決してそいつは許されることなどないのに、何を勘違いしたか『許される存在になろうとする行為』を持って、罪とのけじめを“自分でつける”のが、渉にはどうしても独りよがりで勝手だと思えた。