夜が更けて、千之助は座敷で小刀を手に細い木を削っていた。
 小菊はすでに、二階で眠っている。

「己の名前が思い出せない、か・・・・・・」

 ふっと木屑を飛ばし、何気なく呟く。

「名前だけじゃないよ。何か、自分に関する昔のことは、何も覚えてないって感じだね」

「妙な感じだな。本人が知らねぇってんなら、片割れに聞くしかねぇか。ああでも、生国(くに)のことも覚えてねぇのか」

 そうかもね、と返すのは、大きな油揚げを美味そうに咥える狐姫である。

「・・・・・・おいおい。あんまり食ったら、折角の稲荷の分がなくなるぜ」

 呆れ気味に言う千之助に、狐姫はしぶしぶ咥えている分だけで、残りには蓋をした。
 今夜のうちに、小菊が油揚げだけを煮ておいたのだ。

「ったく。今夜の分は、別に買っておいたってのに」

「良い匂いがするんだもの。あの子、なかなか良い子じゃないか。掃除の手際も良いし、料理も上手い。嫁にどうだえ」

「俺っちにかよ。真っ当な嫁なんざ、来るわけねぇだろ」

「違いない」

 自分から振ったわりには、あっさりと引き下がり、狐姫はぺろりと指先を舐めると、千之助の傍に戻った。

「しかし、そんな相手が生国にいるとはね。ちょいと状況が解せねぇが、小太の奴、気の毒に」

 小菊は以前から小太の店に買い出しに来ていたらしい。
 客として来た小菊に、小太が一目惚れしたのだろう。