あぁ、だいじょうぶだいじょうぶ。
口先だけで返すと秀くんはそれ以上踏み込んでこない。彼のこういうところは本当に優しい。
いけない、いけない。
一度悪い方に考えが転ぶといつも他のことを疎かにしてしまう。私の悪い癖だ。
ちゃんと、しなくちゃ。
─今は『ただの杏子』なんだ。普通の、何も知らない…妖を見始める前の椎名杏子。
だけど家に戻れば『いつもの杏子』になる。師匠がいて、妖に関係する道具がたくさんあって。もう数えきれないほど妖を祓った。邪鬼を屠った。仕事とはいえ情を持ってはいけない、冷酷な自分になる。
そう考えて愕然とした。私は、いつの間に二人になったんだろう。
どっちが本当の私なんだろう。
…線が、ある。
秀くんや飛鳥は妖怪なんてものを知らないし、見える人じゃない。
だから、線の向こう側。
でも、神崎くんや先生は妖を見るこっち側の人間。
この線は、交わるべきではない。
私は線の向こう側の人たちを守る。私は守られる側じゃない。それが使命だから。
…わかってるし、もうとっくに慣れたつもりだった。
なのにどうして今になって、こんなにも逃げだしたくなっているんだろうか。
最近、本当に弱くなった。
なんでだろう。ぼうっと霧がかかったような頭で考える。
あ─そうか。怖いんだ。
「私…知ることが、恐いんだ……」
痛みも苦しみも耐えてきた。我慢すれば耐えられた。
そんな自分の弱点は「恐れ」。私は、本能的に自分の"未知"の部分を怖がってる。
人として当然の真理かもしれない。忘れかけていた感覚。
私をここまで弱くして、枷になっていたのはこれなんだ─
「…わかった」
「え?」
秀くんが不思議そうにこっちを見ていた。
「あぁ、すっきりした! そうだよ、知ることを恐れてちゃダメだよね!」
「?? ど、どしたの杏ちゃん」
「初めてテストの結果見るときとか、逃げたゴキブリの行方とか…怖いけど、現状把握しないと手も打てないよね!!」
我ながら雑な例えだけど、間違ってはないはず。
ずっとため込んでいたドロドロがやっと溶けて、すーっと流れ出ていく感覚。不思議。すごく晴れやかな気分だ。
「無知が一番怖い。今は多分、いっぱい知識を集めて、学んで…蓄える時期なんだ」
きっとそう。
だから本能が何かを抑え込むように怯えていても、乗り越えていかなきゃならない。
目を逸らしてはいけない。
きっと、私にしかできないことがある。
「えーーっと…なんかよくわかんないけど。…バーベキューしない?」
「………」
お肉。野菜。ほかほかご飯。
「…する!!!!」
「よし、決まり!」
