はらり、ひとひら。



「今日は涼しいから、きっと雪路は過ごしやすいね」

「あら。暑くても私は平気です」

「あれ、そうだっけ」


私たちの声は言った傍から夜の静けさに飲み込まれていく。
動揺を気取られないように、息をひとつついてから口を開いた。


「あの、蛟。上がっていきませんか。……主様も心配されていましたし、お顔を見せてあげてください」


努めて自然に編んだ言葉に返事はない。


ただただ、美しい一柱の龍神が、私を凛然と眺めているのみ。

臆するくらいの麗らかさに私は立ち竦む。
慄然とするほど美しいかんばせは一体何を憂いているのか、妖である私には理解できない。


水の跳ねる音を纏って近づく影に抗えはしなかった。
ほんの一瞬のささやかな出来事。


「みずち、なにを……」


ごく近い距離で、形の良い唇が弧を描く。
頬をなぞる指先も、頬に触れる髪の先すらぞっとするほど艶美なのだ。


─あぁ、と。

いつのまにやら転げた傘を拾い上げるような力はない。


まるで美酒に酔わされたような心地。どこにも力が入らない。



「どうか忘れないで。君といた『僕』の名前を」



耳元で触れた知らない音の響きは、頭に直接響いていつまでも消えない。

そのくせ唇に触れた体温はすぐに消えて、熱のひとつも残さなかった。





─この日を境に、蛟は完全に行方をくらませた。