「今夜はバレンタインだから、お客さまもカップルが多いだろう」とマスターが開店前に言った。
それに頷く恵美さんと私。
カップルで来られたお客さまには、サービスでビターチョコを出すことになった。
午後11時過ぎ。
マスターの読み通り、店の大半をカップルが占めていた。
私のカウンターの4席のうち、2席はカップルが、そしてひとつ空けてもう1席に彼が座っている。
それが何だか嬉しい。
今日という日に「ひとり」でいる泰兄が。
私はカウンターの下にこっそり忍ばせた小箱に目をやった。
目の前のこのカップルが帰ったら…
泰兄とふたりきりになったら、渡したい…
そう、チョコレート。
のぞみに言われた言葉を思い出す。
「どんっとぶつかっちゃえ」って。
でも急に恥ずかしくなって、果たして渡せるのかどうか自信がなくなってくる。
カップルの甘い雰囲気の中で、ひとり者の泰兄が浮いて見える。
「今夜は予定ないの?」
彼の前に立って、からかうように私は訊いた。
「なんで?」
「だってバレンタインデーじゃない」
「ああ、通りで」なんて辺りを見回す姿が余裕を感じさせる。
「おまえもこんな時に仕事か。寂しい限りだな、他人がいちゃつくのを眺めて」
「そんなことないわ」
寂しいだなんて、そんなことない。
だってあなたが来てくれたから、それだけで充分よ。
そうして、とりとめのない話をしながら、私にとって幸せな時間はゆっくりと過ぎていった。
でも思いもかけないことが起こった。
ドアベルがなると同時に、けたたましいヒールの音。
店内を静寂を破ったその人物に皆が視線を向けた。
螺旋階段をあわてて降りてくるその人。
彼女に見覚えがあった。
そう、泰兄と初めて私のカウンターに来て、自分に似合うカクテルを作るように言った女性。
「相原さんったら!」
豊かな栗色の髪を揺らしながら、彼女は泰兄の隣のひとつだけ空いていた席に腰を下ろし、腕をからませた。
「京香か。店はどうした」
動じることなく訊く彼。
それに反して、「京香」と彼女のことを呼び捨てにしたことに胸がざわめく私。
「やだ、今夜は休ませてってお願いしてたでしょ?一緒に相原さんと過ごしたいんだもの。あなたのために前のお店辞めて、AGEHAに移ったんだから。これくらいの特別扱いはいいでしょ」
泰兄は黙ったまま、グラスを傾ける。
「探したのよ。どうしてひとりで飲みに出ちゃうの?あそこのホテルのスイートとってるって言ったじゃない」
スイート?
スイートルームのこと?
私は一歩後ずさった。
「あら、あなた。そのせつはどうも。今日も何か素敵なカクテルを作ってくれない?特別な夜だから」
この人と泰兄は…
「ねぇ!聞いてる?」
「も…申し訳ありません。すぐに…」


