「最近真琴ちゃんはご機嫌ね。恋でもしてるのかしら」
バレンタインデーが近付いた頃、ゆり子さんがさらりと訊いてきた。
オーダーされたハムエッグトーストを作っていた私は、思わず落としそうになった。
「そんなことあるわけ…第一出会いがありませんから」
「そうかしら」
プレートにのせたトーストを受け取ると、意味深な恵美を浮かべてお客さんのテーブルに運ぶゆり子さん。
戻って来るなり、耳元で「だって真琴ちゃん、最近きれいになったもの」と囁いた。
額にじんわりと汗が浮かぶ。
「ゆ…ゆり子さんはどうなんですか。きれいだしスタイルいいし…恋をしてるからでしょう?」
話をはぐらかすように私は訊いた。
「ええ、もちろんしてるわよ」
あまりにもあっさりとしたその返事に、キョトンとしてしまう。
「聞きたい?」
「ええ、ぜひ」
「じゃあ、後でね」
そう言って、ゆり子さんはちらりとトーストをかじる中年の男性客に目を向けると笑った。
ゆり子さんのそんな話を聞くのは初めて。
こんなに美人なんだもの、きっと素敵な恋をしてるにちがいない。
私は早くそのお客さんが帰ってくれないかな、って内心思った。
ふたりきりのシトラスの店内。
今夜の定食の準備をしながら、ゆり子さんの「恋」の話は始まった。
でもその内容に、私はなかなか言葉が見つからなかった。
20歳になった頃、ゆり子さんは本通りにある高級クラブのホステスとして働き出した。
いつしかそこで知り合った常連客と恋に落ち、結婚した。
だけど、一緒に暮らし始めた途端にその男性は豹変。
気に入らないことがあると、ゆり子さんに当たり散らして暴力をふるうようになったという。
身体中にあざができ、とうとう顔にも隠せないほどのアザができた。
それを見かねた当時の勤め先のクラブの男性オーナーが間に入ってくれた。
離婚の手続きや、慰謝料のこと、これからのゆり子さんの身の振り方を世話してくれたらしい。
「その人がね、ある日突然、お店をやったらどうかって言ってくれたの。この場所も見つけてきてくれて、借金の保証人にもなってくれてね。彼がいなかったら今の私はなかった。前の夫のところでボロボロになってたわ」
ゆり子さんは目を細めながら、包丁を動かす。
そのクラブのオーナーだった人がゆり子さんの想う人。
「その人は、今どうされてるんですか」
「仕事で遠いところにいるの。あと半年くらいで戻ってくるって噂だけど…」
噂って…なんだかその言い方が遠い気がした。
「連絡は取り合ってないんですか」
その質問に、彼女は「ええ」と寂しそうに笑った。