それから俺の行き先は、小料理屋から病院へと変わった。
503と掲げられた部屋に入る。
ベッドにつけられたプレートを見て、俺は初めてキヨさんが「高橋喜代子」という名前だと知った。
4人部屋の一番奥の窓際のベッド。
「あーら、あんた。こんなところまでご苦労なこと」
キヨさんは大口を開けて笑った。
狭心症と診断され、しばらく入院とのことだった。
「俺だって、来たくて来てんじゃねぇよ」
「そうだよねぇ、何も食べさせてやれないからねぇ」
「いいから、黙って寝てろよ」
来る日も来る日も、俺は病院に通った。
立ち退きの話をするでもなく、ただキヨさんの顔を見に…
そうしているうちに、季節はもう梅雨に入っていた。
雨が強く窓を打つ様子を見ながら、彼女はポツリと言った。
「あたしはさ、子どもがいないから、なーんにも心残りはないんだけどさ…」
「ないけど、なんだよ」
丸椅子腰かけたまま、俺は訊いた。
「あんたがちゃんとご飯食べてるか、それだけが心配」
「…ばかやろう。そんなつまんないこと考えてないで、自分のことを心配しろ」
「それもそうだねぇ」なんて、かすれた笑い声をたてる。
日に日に目に見えてやせてゆくキヨさん。
そんな姿を見ているのがつらくなって、その日は早々に病院を出た。
さした傘からしたたり落ちる滴を見ながら、俺はぼんやりしていた。
『ちゃんと食べてるか心配』
そんなこと…
そんなこと言われたことなかった。
今まで生きてきて、初めて「自分だけ」に向けられた優しい言葉。
何をするでもなく、俺は街の真ん中を流れる河の土手を歩いた。
心がくすぐったかった。
不思議な気分だった。
この気持ちをどう昇華していいのかわからず、ただ土手をゆっくりと歩き続けた。


