愛した人が生死の境を彷徨っていても、私は淡々と身支度を調え、仕事に出かける。
ほんの数時間で自分でも驚くほどに、心の中は分厚い氷が張ったような感覚になっていた。
全ての感情が、冷たく暗い氷の下で息を潜めている。
もう何も感じたくない。
そうやって必死に閉ざした胸のうち。
私はいつものように買い物袋を提げて、シトラスに戻った。
「ただいま帰りました」
「あ、真琴ちゃん!」
今か今かと待っていたかのような、ゆり子さんの声。
「あなたにお客さまよ」
そう言って向けた目線の先には、頬骨の突き出た中年の男性がカウンター席から微笑んでいた。
「天宮先生!」
「さまになってるじゃないか。一度ちゃんと見てみたかったんだ、おまえが働いてるところ」
エプロン姿の私を上から下まで見ると、先生は満足そうに頷いた。
「お身体は大丈夫なんですか?来られるのなら連絡をくださればよかったのに」
「急にこっちに来なきゃいけない用事ができたからな」
そう言うと、意味深に私を見つめた。
先生の「急用」。
それはきっとあのこと。
泰兄のこと。
私が目をそらしてカウンターの中に入ると、先生は大げさなくらいに音を立ててコーヒーをすすった。
「ここ数年、なつみ園の経営が厳しくってな。そんな中で多額の寄付をしてくれていた人が、今危篤なんだ。だから朝一番で豊浜から出てきた」
「寄付?」
それってもしかして…
「そいつは園の出身者で今でこそ成功してるが、昔は食うにも困る時期があった。それでも毎月匿名で金を送ってくれた。まぁこちらとしては、誰だかわかってたんだけどな」
あの人がそんなことを…?
大嫌いだって言ってたあの施設に?
「さっき病院に行ってきた」
「容態はどうなんですか!?」
無意識のうちに身を乗り出した私に、一瞬驚いた先生。
でも静かにカップを置くと、目を伏せて訊いた。
「そいつのことが気になるのか?」
「それは…」
言葉に詰まる。
「だったらなぜ自分で行って、その目で確かめない?」
「彼と私は何の関係もありませんから」
「そうか?今の顔はそんなんじゃないと思うけどなぁ」
笑うと深い皺が刻み込まれる先生。
「俺があいつにおまえの両親のことを話した。この前、見舞いに来てくれた時にな」
それで…それで泰兄の様子が変だったんだ…
「先生はご存じだったんですか、彼があの組織の一員だってことを」
「ああ、もう10年も前からな」
「だったらどうして止めてくれなかったんですか!だってそうでしょ?社会的に許される組織じゃないのは明らかなのに!」
声を荒げた私をなだめるように、まぁまぁと手を振った先生は、また一口コーヒーを飲んだ。


