10年以上前。
わけのわからないまま、橘直人の運転手になった俺。
寡黙な人で、よく後部座席で本を読んでいた。
これといって会話のない車内。
ページをめくる音だけが規則的に続く。
1週間ほどで、彼がどういう人間か嫌でもわかってくる。
圭条会、鶴崎組幹部。
パチンコ店数店舗と、高級クラブのオーナーを兼任していて、組長の鶴崎の信頼も厚い。
若い衆が言っていた。
直人さんは昔、杯を交わした兄貴がいた。
でもその兄貴が亡くなってから、鶴崎組長に頭の良さをかわれて拾われたのだと。
直人さんは今でもその亡くなった人を誰よりも尊敬している、鶴崎組長よりも…と噂をしていた。
そんなにいろいろ知ってるくせに、彼が左小指を落とした理由を誰も知らなかった。
ルームミラーを通して見る彼は、いつも憂いを帯びた表情をしていた。
どうしてそんな顔をしているのか、訊いてみたくなることもあった。
それに小指を落とした理由も。
2ヶ月ほど経った頃だった。
「泰輔、おまえはどうする?このまま続けるか、それともやめるか」
それが何の誘いかはすぐにピンときた。
いつかはこういう時が来るのだと覚悟はしていた。
答えは決まっていたのに、どこかでこの道に進めばもう戻れないという気持ちもあった。
それを見抜いたように直人さんは「無理にとは言わない。続ける気があるのなら、明日も迎えに来い」そう言って、車を降りていった。
俺は車を走らせた。
彼についていっていいのだろうか。
どういう人間なのか、いまいちよくつかめない。
モヤモヤしたまま、いつものように俺の運転する車は、とある整備工場へと滑り込んだ。
「よう、泰輔!今日はどこ擦ったんだよ」
短い金髪男が、つなぎのポケットに両手を突っ込んでニヤニヤしていた。
「さかいオート」の経営者、坂井浩介さん。
「左後ろ…です」
「ったく、直人もめちゃくちゃだよなぁ。免許取り立てのやつに、こーんなでっかい高級車を運転させてさ。自分の命だって危ないっつーの」
そう言って後ろに回り込んで、車体の傷を見る。
彼は直人さんの幼なじみで、今でも親交がある。
俺が初めて車をぶつけた時、ここを紹介してくれたのが直人さんだった。
「ああ、たいしたことねぇよ。ちゃちゃっと直してやるよ」
「ありがとうございます」
「おまえさ、初心者マークつけろ」
「いやぁ、それはちょっと。この車には似合わないし、貫禄なくなるでしょ」
「だよなぁ」
大口を開けて笑う浩介さん。
「できるまで、中で何か飲んで待ってろ」
「お願いします」


