「……大丈夫って、なにが?」
「それはおまえがいちばんよくわかってるだろう」
わからない、と彼女が言う。
駄々をこねる姿があまり似合わないくらいには、麻里香は大人になっていた。
ああ、もうすぐで、二十歳だっけか。
「俺は、おまえが望むように、教師をやめられない」
「……っそんなこと、一言も」
「おまえが望むように、もうひとりの自分を捨てられない」
ものすごい音がした。
それが、彼女の右の手のひらと、自分の左頬によるものだと理解したら、いきなり顔がじんじん始めた。
誰かにおもいきり引っぱたかれたのはこれが初めてのことだった。
「陽平先生は……すごく、弱い人だね」
震えた声が俺を責めたてる。
それは、情けないほど図星で、大正解のことだった。
「けっきょく、お父さんの言いなりになって生きてるじゃん。眼鏡してるほうの陽平先生なんか大っ嫌いなの! あんなの逃げ場所じゃん。ぜんぶ、ぜんぶ、嘘っぱちじゃん!」
口は挟まないで黙って聞いていた。
麻里香にとってはもはやそれさえ気に入らないらしかった。
「もう……別れる。先生の言うとおり、もう、わたしに陽平先生は必要ない」
本当に言ってくれる。
乾いた笑いが落ちた。
こらえきれずそうしてしまった俺に、もういちど、彼女は頬を打った。
いてえな。
「陽平先生、わたしを女の子として好きだって思ったこと、ほんの一瞬でもあった?」
目の前でまっすぐ俺を見る彼女の瞳は濡れていた。
その頬につたうのは、家に帰りたくないと、ふたりきりの放課後の教室でこぼしたときとは、まったく違う色をした涙だ。
「ずっと、わたしに同情してくれて、ありがとうございました」
それでもなお答えようとしない俺に、彼女はあきらめたように、そう言った。
頭を下げて、踵を返していく。
やがて背中が見えなくなる。
自分の人生を歩いていけそうな、俺とは似ても似つかないような、意志の強いうしろ姿だった。



