男の身体が錐もみになり、血が吹き出す。

ただただその光景が恐ろしくて、腰が抜けてその場に座り込み、笠が転がった。


「ひぃっ」


男が無茶苦茶に腕を振り回し、脱兎の如くその場から逃げ出した。

がくがくと震える手を握りしめながらぎゅっと瞳を閉じていると…


――ちりん。


鈴の音がして、そっと瞳を開けた。

誰も居ないはずなのに、とても懐かしい気配がして…

そんなはずはないのに、と思いながら、息吹は何もない目の前に手を伸ばした。



「…主、さま…?」



返事はない。

当たり前か、と思って転がった笠を手に立ち上がろうとすると、ふわっと風が吹いて、またあの音がした。


ちりん。


何故か幽玄橋を無性に見たくなって笠を胸に抱きしめたまま歩き出し、息吹の素顔を見た人々がその可憐さに脚を止める者も現れる中、


あの懐かしき幽玄橋の前に立った。


…ここに近づく者は居ない。

幽玄町の方には赤鬼と青鬼の大きな姿が見えて、懐かしさのあまり…手を振りそうになって、自身の手を握りしめて、呟く。


「主さま…元気かな」


大きくなったら自分を食おうとしていた主さま。

何も知らずに、その愛情は無償のものだと信じて10年育てられたけれど…

主さまは不器用ながら愛してくれた、と今でも思っている。


「息吹!どこへ行ってたんだ!?」


心配しきりの声に振り返ると道長が駆け寄ってくる所で、笠と髪紐を握りしめながら頭を下げた。


「ごめんなさい」


「この橋には近付かない方がいいぞ、妖に攫われてしまう」


「…」


「何かあったのかい?」


よもや“幽玄町が懐かしい”と言えるわけもなく、作り笑顔を浮かべて晴明の手を引っ張った。


「もう戻りましょう」


――幽玄橋の前から去る息吹を、主さまが見送る。


…暴漢から息吹を救った時…


座り込んだ息吹の前で同じように座り、白い頬に手を伸ばして触れそうになってしまった。


また、息吹も手を伸ばしてきた。

…見えていないはずなのに。


「…くそ…」


触れたい。

今すぐ、攫いたいのに――