主さまの気まぐれ-百鬼夜行の王-【完】

「十六夜、あれはまずい。あの手に絶対やられるな」


「よくも息吹の唇を…」


自分はあんなにも躊躇して、ようやくあの可憐でやわらかな唇を得ることができたのに。


想像だけで憤死しそうなほどに静かに激高した主さまの怒りが天叢雲に流れ込み、不気味な笑い声を上げた。


『早くあ奴を斬らせろ!』


――だが主さまはなかなか鬼八の間合いに踏み込めなかった。


切り落としてもなお手足塚を封印している石を持ち上げようとして毎夜揺らし続けていた鬼八の腕。


「息吹姫は直に鵜目姫の記憶を取り戻す。その前に、お前を殺す。お前のような裏切り者の一族の元に鵜目姫を渡すものか!」


躊躇しているうちに異形の腕を振りかざしながら鬼八が急接近してきた。

危険を察知した八咫烏が大きく旋回し、主さまはその背から降りると鬼八に向かって天叢雲を振り下ろした。


天叢雲に斬れないものはない。

…そのはずなのに、鬼八の爪はやすやすと天叢雲を受け止めた。


「その程度か。刀が上物でも使い手がお粗末で刀を活かし切れていない。俺に歯向かうなど…愚かな!」


「う、ぐ…っ!」


主さまの右肩に爪が食い込んだ。


咄嗟に身を引いて距離を取ったが、あの瞬間に毒が体内へ入ってきて、激痛が身体を苛んでよろめいた。


「もう少しで楽に死ねたものを。死ね!」


空を蹴って猛襲してきた鬼八の顔には激しい憎悪。

痛手を受けた主さまはその場から動けず、もう駄目だと思った時――


「十六夜!」


からくも八咫烏を操って主さまの傍へ行き、身体に腕を回して引き寄せると寸でのところで鬼八が腕を振り下ろしたところで、晴明は振り返らずにその場から逃げ出した。


「…腰抜けが」


爪についた主さまの血。

鬼八はしばらくぬらぬらと赤黒く光る爪を見つめていたが、すぐさま踵を返して洞窟へと戻った。


「息吹姫」


「鬼八さん、外で大きな音が………鬼八さん…その手…その血…どうしたの?」


――鬼八の手から、主さまの香りがした。


息吹は鬼八に駆け寄ると肩を強く揺すった。


「主さまは?ここに来てるの!?」


鬼八は、答えない。