「ニックネームじゃないわよ。そんなみんなが呼ぶようなのは嫌なの。カノジョの特権っていうか…。私だけが使える呼び名がいいの」
真剣な綾乃の視線から逃れるように、信太郎は辺りを見回しながらとりあえず笑った。
「そっか…じゃあ早く決めて、そう呼んで」
「うん、楽しみにしてて」
信太郎が乗った電車を見送ると、綾乃の顔から引き潮のように笑顔がすうっと消えてなくなった。
彼は本当に自分を好きでいてくれてるのだろうか、このところ自信がない。
いや、付き合い始めた頃からかもしれない。
ずっとそんな不安に気づかないフリをしてただけなのかもしれない。
「付き合ってください」
生まれて初めての綾乃の告白に、信太郎は身じろぎもせず彼女を見つめていた。
何の反応も見せない彼に気まずさを感じて、綾乃が「あのぅ」と口を開きかけた時、
「ごめん、ごめん、びっくりしちゃって。こんなかわいい子からそんな事言われるなんて思ってもみなかったからさ」と目を細めた。
「返事聞かせてくれる?」
そのときの彼の様子を綾乃は今でも鮮明に覚えている。
照れたように笑って、しきりに鼻の頭をかいていた。
今思えば照れたように、と見えたのは自分の思い過ごしかもしれない.
もしかしたら、本当は困り果てて笑うしかなかったのかもしれない、と綾乃は思う。
結局彼と付き合うことになったが、綾乃が友達から聞くように、カレシの方から積極的にデートに誘ったり、手をつないだり、触れようとは信太郎に限っては全くない。
いつも綾乃からだ。
彼は何となく一緒にいてくれてるだけなんじゃないか、他に好きな人がいるんじゃないか。
いつか口走った「ナツ」という名前の人物。
その人に彼をとられてしまいそうで怖い。
なんとかしてつなぎとめておきたい、こんなにも彼のことが好きで好きで仕方ないのだから。
綾乃は手を握りしめた。


