「夏海は?」
風呂からあがった父の克彦が、無造作に髪を拭きながら居間で夕刊を読む武子に訊いた。
「部屋で勉強してるよ」
「…そうか」
何やら考える仕草をすると彼は武子の前に座り、こたつに足を突っ込んだ。
春近しと言えども、まだ寒い。
「なぁ、母さん」
「なんだい」
新聞に視線を落としたまま、武子はつっけんどんに答える。
「夏海が大学に行くことをどう思う?」
そこで初めて武子は老眼鏡をとり、目の前に座る白髪混じりの息子の顔を見た。
「そりゃあ、なっちゃんが行きたいって言えば行かせてやればいいじゃないか」
困ったように克彦は半渇きの髪をタオルで撫でる。
「実は今日担任の山下先生から電話があって、なんとか夏海を進学させてやってくれって」
「で、なっちゃんは?」
「大学に行く気はないって言ったらしい」
「なら、いいじゃないか、行かなくても」
「いや、それがさ…」
「なんだい、早く言いなよ。じれったいね」
「前に俺がさ、言っちまったんだよ。女は大学行かなくていい、豊浜で仕事見つけて、豊浜で結婚すればいいって。だからあいつ…」
「バッカだねぇ、あんた」
それきり武子は眼鏡をかけて新聞に目を落とした。
キッチンからは冷蔵庫のうなる音がしばらく続いて、途絶えた。
「ちょっと話してくるか」
克彦が重たそうに腰を上げると、小さな黒塗りの仏壇が目に入った。
夏海の笑った時と同じ、三日月を落としたような瞳がこちらを見ている。
息子の様子に気付いて、武子も遺影に目を向けた。
もう17年になるのか…
克彦は鼻をすすると、冷たい廊下を素足で進んでいった。


